礼拝説教
6月1日礼拝説教
説教「神の救いは水の中を通る」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ペトロの手紙Ⅰ 3章20~22節
「ノアの箱舟」の話は、キリスト者でない人にも広く知られているように思われます。神の前に全地は堕落し、人々のあいだに不法が満ちた時、神は40日40夜、雨を降らせ、大地を洪水で覆ったという話です。その時、ノアとその家族、8人だけが、神の命じる箱船を造り、それによって水の中を救われました。この物語りを知って、それはいつ、一体どこで起きたのかと調べる人もいるようですが、それよりもむしろ人類の営みやその歴史の根本に人類の罪があるという認識や、そこからの神の救いがあることを考えるべきでしょう。洪水は一度ならず、繰り返し人類を襲う試練でもあり、人類は大きな、いわば滅びの経験を幾つもしてきたのはなぜなのか考えるべきと思います。
今朝の聖書は、箱船に乗り込んだ8人だけが「水の中を通って救われた」と言って、それは洗礼を指差しており、「洗礼は、今や、イエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」(21節)と言います。「水の中を通っての神の救い」があり、それは「洗礼」を指差し、さらに「洗礼」は「主イエス・キリストの復活」による救いを指差していると言います。「洗礼」の水には古き自分の罪に死に、復活のキリストの命に与って、救いに生きる意味があります。
私たちにもそれぞれ人生の経験があり、人によっては滅びにも似た苦しい経験があったのではないかと思います。個人の人生だけでなく、人類史的な出来事もあります。それらすべては「ノアの洪水」の如くであって、人類の罪がその根本にあるでしょう。しかしそれでもその水を通って、洗礼により、イエス・キリストの復活による神の救いにあずかれると理解されます。また私たちにどんな試練があっても、そこには罪の問題がありますから、その試練からの救いは「洗礼」によると言われます。「洗礼は今や、イエス・キリストの復活によってあなたがたを救う」と言われていることに注意をしなければならないでしょう。
洪水の水は言うまでもなく、死や破壊や滅びを意味します。しかしそれをイエス・キリストから理解し、またイエス・キリストとその復活を目的として理解するようにと言うのです。そうすると主イエス・キリストが死から命へと復活したように、主キリストと共に死を潜って命に至る途があるわけです。そのとき死や滅びをもたらした水は、洗礼の水として古き人の死を意味しながら、新しい人の命の水でもあるわけです。
キリスト者とはどういう人たちか、ペトロの手紙は最初から、神の豊かな憐れみにより、「新しく生き返らされた人たち」と言い、死者の中からのイエス・キリストの復活によって生き生きとした希望を与えられた人たちと語ってきました。「水の中を通って救われる」とここでは言われますが、それはノアの洪水のような絶滅の状態の中を通って希望へと救われるということでしょう。
「洗礼はあなたがたを救う」と語って、その洗礼とは何かをペトロは記します。「洗礼は肉の汚れを取り除くことではない」と言われます。水にはもちろん汚れを洗い落とす働きがあります。きれいな水は、汚染から洗い清めるでしょう。それも重要で、洗礼にも汚れから洗い清める意味があると語られることもあります。しかしペトロはそれをここでは語りません。洗礼の意味は、単に汚れを取り除くことではないと言います。身体を洗い清める程度のことでなく、死から命へ、滅びから救いへの転換であって、神の救いが遂行されているわけです。その洗礼が成し遂げる救い、水の中を通って救われるというのは、肉の汚れを取り除くことでなく、キリストの復活によって「神に正しい良心を願い求めることです」と言われます。
「正しい良心を願い求めること」がどうして救いになるのでしょうか。この個所はどう訳すべきか苦心される箇所でもあって、「願い求める」と訳すかわりに「応答」と訳して、「正しい良心の神に対する応答」と訳す聖書もあり、また「正しい良心が神に対して行う誓約」と訳している人もいます。いずれにしても「洗礼」は「正しい良心」に関係し、その「正しい良心」によって、「願い」「制約」「応答」がなされること、それが洗礼だと言うのです。
「正しい良心」とは何でしょうか。「正しい良心」は、やましい良心ではない。罪にさいなまれて苦しむ良心でなく、真実に平安の中にある良心です。罪の咎めや良心のやましさに苦しむのは、辛く、厳しいものです。逃れられない苦しみで、不安にさいなまれる場合もあります。それに対して「正しい良心」は心底、平安で、神の赦しの中で安心していられる良心のことです。「正しい良心」というのは、ですから「神に結ばれた良心」であり、神の赦しを信じて神と共にいることに深く安心した良心です。神の赦しは、何もないのに赦しがあるのではありません。赦しには根拠があります。罪の処罰を行い、その処置をはっきりつけています。神の審判が厳粛に行われています。それが主イエスの十字架にあってのことです。何にもないのに赦されているわけではありません。神の御子であるイエス・キリストの命を懸けた審判があっての赦しです。ですから洗礼は、主イエスと共に水の中を通り、罪に対して死ぬわけです。そして「洗礼」は主イエス・キリストの復活によって生かされます。そうした神の処置を踏まえて、神に結ばれた良心の平安が約束されているわけです。そしてその良心をもって、神に願いをし、誓いをたて、応答する。つまり信仰の生活に生きることができます。正しい良心は、神と共なる生活を平安に生きる心であって、それが洗礼による命だというのです。
洗礼を受ける時に問われて応答をします。あなたは信仰を告白しますか。あなたはバプテスマを受けることを心から願いますか。あなたは教会の会員として忠実にその責務を果たすことを志しますか。それは私たちのために私たちと共にいてくださる神を信じ、神に結ばれることを願い、神と共なる生活を生きることを志すか、そう問われるのです。そしてそのように願い、信じ、志しますと答える。それが洗礼であって、それでこそ、どんな試練や苦難の中でも、わたしたちのために水の中をとおってくださる主イエス・キリストにより、その復活によって救われて生きると言うのです。
ノアの洪水は、実は洗礼を指差し、神の救いはイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うと語るこの個所は、最後にもう一度、そのキリストがいかなるお方であるかを語ります。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」。どういうことでしょうか。洗礼を成りたたせ、その復活によって、罪にも死にも打ち勝たれ、私たちを神との平安な良心に生かしてくださるイエス・キリストは、神の右にあって勝利の主です。
「洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救う」とありました。「今や」とは何でしょうか。「今や」というのは、主イエス・キリストの偉大な御業と主の勝利の今です。主イエス・キリストによる偉大な神の働きによって、新しい救いの時が開始されています。それを表しているのが、キリストが天に上り、神の右に座し、天使、また権威や勢力を支配するという記述です。キリスト教信仰は、こういう主イエスにある神の偉大な働きを信じ、「今や」キリストの勝利の時と信じ、そして伝えます。
イエス・キリストにおける神の偉大な救いの働きと、それゆえにまた主イエス・キリストの偉大な力、主イエスの「大権」、「万物の頭」であり、「主」であり、「王」であるキリスト、この主であるキリストをしっかりと信じて、主イエスの「偉業」を理解し、安んじて神に結ばれた良心をもって神に願い、神と約束し、神に応答する生活をこころおきなく存分に生きることです。歴史や人生の中でどんなに壊滅的な危機に直面しようとも、ノアの洪水ほどではないでしょう。そのノアの洪水が洗礼を指していて、その中を通ってわたしたちは救われたのです。なぜなら、「キリストは神の右におられ、天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しています」。この大能の主イエス・キリストが水の中をとおって、私たちと共に、また私たちのためにいてくださるからです。
天の父よ、あなたは水の中をとおって救いに生かすお方であるとの御言葉を聞くことができて感謝いたします。わたしたちも「洗礼」によって、復活の主イエス・キリストとの共なる命に生かされていることを感謝します。どうか、あなたに結ばれた平安な良心をもって、信仰の生活を存分に生きることができますように。そして勝利者であり王である主イエス・キリストによる救いの福音を証ししていくことができますように。また、主イエス・キリストの偉大な勝利の御力がこの世界を義と平和に導いてくださいますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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