礼拝説教
5月3日礼拝説教
説教「いのちの霊による解放」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ローマの信徒への手紙8章2~4節
人生を生きるということは、色々な出来事や巡り合わせの中を生きることでもあります。遠くで起きる事件もあり、近くで起きる事件もあり、遠くの事件が近くに及んでくることもあります。そうした人生と世界の色々な出来事の中で何が一番根本的で、決定的な事件、重大な出来事でしょうか。聖書が語り、教会が伝え、キリスト教信仰者が信じているのは、何と言っても、主イエス・キリストにあって、その御生涯をとおし、またとりわけ地上の生涯の最後に起きた出来事で、それが神の決定的な人類救済の偉業であったということです。それで、その神の偉大な御業を伝える言葉が、「福音」(good news)と言われます。主イエス・キリストにおける神の偉業が、その前とその後で、世界史を二分するものになって、今私たちはイエス・キリストの大事件の後、キリストの恵みの中を生きている、そういう年の数え方が生まれました。
この福音を伝えて、ロマ書8章は、「今や、キリスト・イエスにある人は罪に定められることがない」と語りました。「罪に定められることがない」のであれば、神と共に、そして主イエス・キリストともに新しい人生を、希望のうちに生きることができます。しかしそれにはどういう根拠や理由があってのことでしょうか。キリスト・イエスにおいてどのような神の偉業が起きたのでしょうか。そこで起きた神の御業があやふやでは「救い」を言われても、「確かさ」がありません。新しい人生を生きると言っても、「確かさ」がなければ、あやふやで、喜びも力も湧いてこないでしょう。ですから、イエス・キリストにあって何が起きたのか、どういう理由で救いの確かさがあり、また新しい人生の根拠があるのでしょうか。
「キリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」と語ったうえで、ロマ書8章は、その理由を2節と3節で語ります。この2節にも3節にも、「なぜならば」という理由や根拠を示す小さな言葉が重ねて出て来ます。わたしたちの聖書の訳し方ではそれほど明確に表現されてはいませんが、2節は「なぜならば、命の霊の法則が罪と死の法則からキリスト・イエスにあってあなたを解放したからです」とあります。そして3節には、「なぜなら、律法に力がないので、神が御自身の御子を罪の肉と同じ姿で罪のために遣わし、罪を罪として処断されたからです」とあります。イエス・キリストにあってどんな神の偉業がなされたのか、それが二つの表現で語られているわけです。一つは、「いのちの御霊による解放」であり、もう一つは、「キリストにおける神による罪の処断の働き」という働きです。イエス・キリストにある神の偉業、人類史を二つに分ける決定的な神の御業が、この二つの表現で知らされています。教会の神学が贖罪論として語ってきたことです。
神の贖いの御業としては3節の方が分かりやすいかもしれません。神が御自身の御子を罪のために世につかわし、それも罪深い肉と同じ姿で、つまり人間として、遣わされました。「受肉」と言われる出来事です。人となった主イエス御自身は罪を犯すことはありませんでした。主イエスの無罪性と言います。しかし人となった御子なる神・キリストのその人である肉において、神は罪を罪として処断されたと言うのです。これは、主イエスの十字架の出来事を踏まえて語っていることは明らかです。「処断された」というのは、「罪を断罪した」と同じ言葉で、罪を犯した人を断罪するのでなく、罪そのものを処断し、断罪する。つまりは罪を罪に定めることで、罪にそれ以上力を持たせない、罪の将来を断つわけです。罪を決定的に無力化したと言ってもよいでしょう。罪の息の根を止めた、その意味で罪を滅ぼしたと言うこともできます。それがイエス・キリストにおいて神の御業として起きたというのです。罪に対する神の勝利があり、義なる神の御力が示され、イエス・キリストにある者が決して罪に定められることのない根拠が据えられたわけです。この御子の受肉と贖いの御業は、さらに色々な聖書の箇所で語られ、何度語っても語りつくせない神の偉大な働きと言わなければならないでしょう。
しかし今朝は、その前の2節に語られている、主イエス・キリストにおける神の決定的な働きのもう一つの面にも注意を向けたいと思います。2節はイエス・キリストにある出来事を、「いのちの霊の法則があなたを解放した」と言います。「いのちの霊の法則が罪と死との法則からキリスト・イエスにあってあなたを解放した」。そういう出来事がイエス・キリストにおいて起きたと言うのです。「解放した」というのは、自由にしたということです。「法則」と訳されている言葉は「律法」と同じです。法則とか律法、要するに法というものは、人間が生きて行くうえで、また世界が営まれるうえでも、重要です。しかし法に救済力がなく、解決能力がなければ、「律法の無力」ということになります。人間の罪のゆえに律法は、「罪と死の律法」になってしまい、人間を救うことができず、ただ悩ますものになっています。ですから3節にいわれるように、律法に力がない。だから神御自身によってキリスト・イエスにおいて罪の無力化がなされなければならないわけです。それに先立つ2節ではキリスト・イエスにあって「いのちの霊の律法」があなたを「罪と死の律法」から「解放した」「自由にした」。そういう神の偉業がなされたのだと語られます。
神の霊、霊なる神は「いのちの霊」であって、「死の法則」からの解放を成し遂げた、死から命へと聖霊によって自由にされた、そういう神の御業が語られています。これは、主イエス・キリストの復活を踏まえていると言えるでしょう。死人のうちからの主イエスの復活は、神の霊の働きでした。なぜなら霊は「いのちの霊」だからです。
「霊」という言葉は、ギリシャ語ではプネウマですが、その前のヘブライ語ではルアッハと言います。いずれも風や息、そして呼吸を意味すると言われます。「ルアッハ」と発音するとき、「ル」の発音で喉が激しく振動する、そういう喉の激しい振動の中に、古代人は命の躍動を感じとったという説明を聞いたことがあります。聖霊は神の力であり、神の息吹ですから、とりわけ生かす力であって、霊の息を吹き入れられた時、人は生きるものになるわけです。創世記2章7節、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。主イエス・キリストにおける神の偉大な救いの御業にも、聖霊、「命の霊」が働いて、死の支配、死の掟からあなたを解放したと言われるわけです。わたしたちがイエス・キリストにあるとき、神は御子を受肉させて世に遣わし、主の十字架においてその肉にあって罪を無力化させるとともに、また神の霊、つまりいのちの霊によって主イエスを死人の中から甦らせ、その復活の主イエス・キリストにあって、いのちの霊が死の支配からあなたを解放したと言われます。死んでも生きる命に生かされています。イエス・キリストにあって、御子なる神と父なる神と聖霊なる神が、一体になって、余すところなく、また惜しむことなく、救いのために働いてくださる。三位一体の神すべてが、主イエス・キリスト、御子なる神にあって救いのために御業を行われたわけです。
いのちの霊は、あなたを死の掟から解放したと言われ、独り子を遣わした父なる神は、罪を罪として処断しました。これから解放します、処断しましょうというのではありません。すでにわたしたちを死の掟から命へと解放し、罪を罪として処断しました。その動詞は過去に、一回的におき、しかも今日にも、そして将来にわたっても力を発揮する仕方で起きたことを示そうとする文型で記されています。イエス・キリストにおける神の偉大な御業は、地上の主イエスにあって過去のあの時、起きました。しかしそれは、時とともに色あせて過去のものになったのではありません。活けるキリストにあって今日のためにも働き、力を発揮している御業です。御霊を受けて今朝も、わたしたちは命へと解放されます。わたしたちを縛る罪は、すでに、そして今も、息の根を止められ、無力化されています。イエス・キリストにおける神の偉大な御業は、将来に変わらぬ力と効力を及ぼし、終りの完成の時にまで及びます。いのちの霊が死から命へと解き放ってくださったこと、すでに罪の息の根は止められていること、この主イエス・キリストにある神の偉大な救いの御業は、世の終りまで力を及ぼします。過去に起きた御業が、過去化せず、現在に、そして将来に、終りの時の完成に向かって働き続ける。教会の神学はこれを終末論的な出来事と呼びます。キリストにある神の偉大な救済の御業が、今日のわたしたちだけでなく、明日のわたしたちも、そして最後の完成まで支えてくださいます。
天の父なる神様、主イエス・キリストにおけるあなたの偉大な救いの御業のゆえに御名を讃美いたします。あなたは御子をさえ惜しまず世に遣わし、その十字架において罪を罪として処断なさり、その力を打ち砕いてくださいました。また命の御霊なる神よ、主イエス・キリストにあってわたしどもを罪と死の律法から解放してくださったことを感謝いたします。父、子、御霊にいますあなたの余すところのない偉大な救済の御業によって、主にあって生きる命と自由を与えられたことを感謝します。どうぞ主なる神であるあなたのみ旨、あなたの御意志を信仰によってわきまえ、従っていくことができますように。あなたの御業を伝える福音の言葉を世に伝え、世の光となることができますように、
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

ー礼拝スケジュールへー