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礼拝説教

11月2日礼拝説教

説教「洗礼における死と新しい命」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
          ローマの信徒への手紙 6章1~4節

 キリスト者は、主イエス・キリストにあって神を信じる者です。神を信じる者になって、何か変わったことがありましたかと聞かれることがあるかもしれません。つい最近、洗礼を受けてキリスト者になった方もおられるでしょう。また若い時に洗礼を受けて、もう何十年も信仰生活を生きて来られた方もおられると思います。キリスト者になって何か変わったことがあるかと自問して、自分はあまり変わっていないと思う方もおられるのではないでしょうか。

 今朝の御言葉には「恵み」という言葉が出て来ます。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと罪の中にとどまるべきだろうか」と問うのです。キリスト者は神の恵みによって生き返らされ、キリストのもの、キリスト者とされました。誰も自分からキリスト者になったのではありません。神の恵みがあって、神を信じたいという願いを起こされ、洗礼を受けたいとう気持ちも起こされ、そして洗礼を受けて、キリスト者にされました。神が恵みをもってわたしたちを赦し、神の子としてくださった。そのとき罪の増すところで恵みはいっそう満ち溢れたと言われます。ですから、キリスト者とされたことは、大きな変化が起きたことです。いや増し、満ち溢れる神の恵みの中に入れられ、恵みの下に生きる人生にされたのです。神を信じることをせず、神と無関係に生きている人生とは、大変な違いと言うべきでしょう。

 しかしそこで問いが起こります。神の恵みを受けたにも拘わらず、わたしたち自身の人柄や人生の生き方は、相変わらずのところが多いのではないかという問いです。それで相変らず、罪の中にとどまっているのではないかとも自問されます。それで聖書は「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と問うて、「決してそうではない」、「そうでないように」と語るわけです。

 罪の増すところ恵みはいっそう増し加えられたというのは、まさしくその通りで、喜びのメッセージです。ですがそれをうけて、それなら「罪にとどまるべきだ」ともし考えるなら、それはまったく甘えた、我儘勝手というか、皮肉れた考え方であることは明らかです。神の恵みがいかに厳粛な意味での恵みであることかを思い、恵みは神の深い憐みであり、御子・主イエス・キリストの十字架をもって遂行されていることを思いますと、「罪にとどまるべき」という考えになりようはずはありません。

 しかし、そうあるべきと主張するのではありませんが、事実上の問題として、わたしたちが相変らず罪の中にとどまっているという経験はあるのではないでしょうか。その意味で神の恵みを知らぬ前と恵みに入れられた後の自分では、何も変化がないと感じることがあるかもしれません。信仰生活を何年も生きて、もう少し神の子とされた者らしく生きなくてよいのか、そういう問いが胸を衝くことがあります。相変らずの自分、神の御心を痛める自分、いまなお自分中心の考え方や感じ方にとどまり、他者に同情を寄せ、愛をもって生きる思いが薄く思え、あるいは自分の怠惰を思う場合もありますでしょう。信仰の筋道としては、恵みによって罪を赦され、義とされ、神の子とされています。ですが自分の経験の中ではいまなお罪にとどまっている。そういう矛盾が信仰生活の中にあると感じてしまいます。

 しかし今朝の御言葉は「罪に対して死んだわたしたち」と言っています。そのわたしたちが「なおも罪のなかに生きることができるでしょうか」と言います。ここでは神の恵みはわたしたちの命を死を潜った命に変えていると言うのです。恵みに生きている。いな、神の恵みに生かされている。ならばそれは、罪に対して死んだ。つまり古い自分が死んで、生き返らされた人として今、生きている、それもキリストと共に生きている。それが恵みに生きるということです。
神の恵みは観念的なことでも抽象的なことでもありません。神の恵みは具体的です。恵みを受けたとは、洗礼(バプテスマ)を受けたことです。恵みの話は、洗礼の話になっていきます。

 洗礼とはいったい何でしょうか。洗礼は十分に分かってから受けなければならないものではありません。ひとそれぞれに理解の幅があり、かなりよく分かってから受けたいと思う人もいるでしょうが、しかし洗礼には受けてからでなければ、分からない面があります。成人洗礼でなく、幼児洗礼があるくらいです。信仰生活は、洗礼を受けることによって始まり、受けたその洗礼の意味に次第に深く気付いていきます。そしてそこに根拠を置き、それが身に着いて行く、そういう歩み方をします。それが信仰生活です。

 パウロはここで「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と言います。「キリスト・イエスに結ばれるために」と訳されている言葉は、「キリスト・イエスの中にバプテスマされた」という言葉です。キリスト・イエスの中にバプテスマされたとは、キリスト・イエスの中に浸され、全身入れられたということです。当初の洗礼は川の中で行われました。わたしも実はいわゆる浸礼、全身洗礼を受けました。ですが、これは頭からただ水を浸された洗礼でも内容に変わりはありません。重大なのは、その時にはしっかり分かっていなかったとしても、それは「キリストの中にバプテスマ」されたということです。そのことは「彼の死の中にバプテスマされた」と同じです。わたしたちがキリストの中に浸され、キリストの中に入れられてキリストのものとされ、キリストの体の一部にされている、それが、神の恵みです。そしてそうであれば、キリストの死の中にも浸されているわけです。キリストの死と言えば、わたしたちの罪のために主イエスが代わって審判を受け、わたしたちを赦しの中にいれてくださった、あの主の十字架の死です。

 バプテスマをうけたわたしたちは「皆」とあります。洗礼の意味の理解にはそれぞれ幅があり、違いがあり、よく分からないうちにも、どうしても受けたくて受けた人も、なかなか受けられなくてやっと臨終間際の床の中で受けた人も、「皆」です。「皆」とあるのは、洗礼を受けた人は例外なくということで、その人はキリスト・イエスの中へといれられ、主の体の一部とされました。それが恵みなのです。そしてその恵みには、キリスト・イエスの中に浸されたゆえに、その死の中にも入れられ、さらにはキリストと共に葬られたとさえ言われます。

 バプテスマが死と結びついているのは、水の中に浸されれば誰も生きていられないことから来ています。頭から数滴の水を受けましたが、それは全身水に浸されることを表しています。水の中に全身浸され生きていける人はいません。バプテスマとは古き自分に死ぬこと、それもキリストの中に浸(ひた)されてです。

 バプテスマが死と結びくのは水に潜らされて生きられる人はいないからだけでなく、主イエス御自身がご自分の十字架の死をバプテスマと呼んだことを忘れてはならないでしょう。洗礼者ヨハネから主イエスは罪の悔い改めのバプテスマを受けました。御自身罪がないにも、かかわらず罪の者たちに連帯して罪からの悔い改めのバプテスマを受け、その時以来、罪あるすべての人のためにその贖いとして御自身を献げる決意をなさり、十字架への生涯を歩まれました。そして御自分の十字架の死を「バプテスマ」と呼んで、「わたしには受けなければならないバプテスマがある」(ルカ12・50)と言われました。ですから神の恵みは、そのイエス・キリストと一体になる洗礼の中にあり、キリストと共に死に、共に葬られることが含まれているわけです。そしてその恵みは、キリストと共なる新しい命に生かしてくださる恵みです。

 自分の人生を顧みて、キリスト者として何の変化もない、相変らず罪にとどまっていると言うなら、その自己認識は事実でなく、真実でもありません。あなたは神の恵みのバプテスマによって主イエス・キリストの中に入れられているのが、真の現実です。そしてキリストの中に浸されることによって、キリストと共に死に、キリストと共に葬られ、キリストと共に生かされています。あなたはもはや罪の支配下にはいない。罪に対して死んでいます。自分は罪に対して死んだと認めなければならないでしょう。キリストと共に神の恵みの中に生かされていると認めることです。キリスト者たるもの、罪の意識に悩んではいけません。それは正しくない。バプテスマを受けて自分は変えられた、キリストと共に死に、葬られ、キリストと共に生かされている。それがキリスト者みなの事実、例外なしの真実です。信仰生活はその根本的な喜びの中で生かされています。それが一段深い事実であり、一番根本的な真実であることを認めなければならないでしょう。

天の父よ、主イエス・キリストに浸された洗礼を受け、あなたの恵みの中に生かされておりますことを感謝いたします。この恵みを常に胸に覚えて、あなたより与えられる一日一日を日々新たに喜んで生きることができますように。またこの恵みをわたしたちの基礎とし、また生きるエネルギーとして、信仰の証しをすることができますように。弱さを覚えている人々に神の恵みが生きるエネルギーの源であることを伝えていくことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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