礼拝説教
11月3日礼拝説教
説教「私たちの罪を担われたキリスト」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ペトロの手紙Ⅰ 2章21~25節
「教会歴」のなかに「主の同情」とか「主の憐み」(Misericordias Domini)という日があります。私たちの教会歴では復活節第三主日に当たる日ですが、今朝の聖書箇所はその「主の同情」「主の憐み」の主日によく読まれる箇所です。主イエス・キリストの憐みと私たちに対する熱い同情が語られています。
21節に「キリストもあなたがたのために苦しみを受けた」と言われ、24節では「十字架に架かって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」とあります。私たちのため、つまりはこの私のために、苦しみを負われ、罪を担われた方がいるということは、並々ならないことでしょう。苦しむ子供のためにその苦しみを負いたいと願う親はいるかと思います。ですが、どんな親も人間の限界の中にあって、自分の苦しみを負うだけで、子供の苦しみそのものを負うことはできません。
主イエス・キリストはわたしたちのために苦しみを受け、わたしたちの罪をその身に担ってくださいました。それは、私たちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためと言われます。「福音」(良きおとずれ)とはこのことです。キリストがわたしたちのために苦しみ、十字架にかかってその身に私たちの罪を担ってくださった。それで私たちもキリストと共に罪に死に、キリストと共に義に生きる。この福音を信じるのがキリスト教信仰であり、この信仰によって救いにあずかります。
ペトロはこの福音を正しく伝えるために、イザヤ書53章の「苦難の僕」のテキストを引用しながら語っていますが、特に「二つのこと」を強調しました。その一つは「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」という事実です。イザヤ書53章には「彼は不法を働かず」とありますが、単に「法」「律法」に背かなかっただけでなく、そのことも含めて主イエスは一切の「罪」を犯さなかったと言います。主イエス・キリストの「無罪性」と言われます。そしてもう一つは、「ののしられてものしり返さず、苦しめられても人を脅さず」と伝えて、主イエスが十字架を前にして「沈黙」されれたことを伝えます。主イエスの無罪性と沈黙、この二つのことが注目されています。
まず、主イエスの無罪性の方ですが、イエスはまったく罪のないお方でした。このイエスの無罪性というテーマは、福音書の中にも証言されています。犯罪人を十字架につける権限を持っていたのは、ローマの総督であったポンテオ・ピラトです。しかし彼は主イエスを十字架に架ける理由がないのを知っていました。主イエスを訴えた祭司長や律法学者たちもみな、十字架にかける根拠となる罪を指摘することができませんでした。ルカによる福音書は、共に十字架に架けられた人の口で証言しています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」(ルカ23・41)。
主イエスの無罪性は、主が十字架にかからなければならなかった理由は、主イエス御自身にはなかったということです。それではなぜ十字架にかかられたのか。罪なき方の十字架は、それだけ一層深い苦しみではなかったかと思います。それは逆に、主イエスを十字架にかけた者たちである人間の罪を明らかにします。ペトロは、それで主の十字架は「私たちのために苦しみ、わたしたちの罪を担ってくださった」のだと告げました。罪のないキリストがその十字架によって私たちの罪を負われた。この主の十字架によって私たちは、私たち自身の罪の重さ、重大ささを知らされ、また神の義と神の愛を知らされます。
神の愛を知るということは、私たちのために主イエスが苦しみ、私たちの罪を担った、その主の愛、主イエス・キリストの憐みを知ることですが、同時にパウロが言っている様に、神が「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ8・32)と知ることです。主イエスの無罪性は、十字架に苦しまれた神の御子なるキリストの愛と、そのようになさった父なる神の愛を示しています。
もう一つは、ペトロは主イエスの「沈黙」に注目しています。主イエスは沈黙のうちに十字架におかかりになりました。それはなぜだったのか。弱い人間がただ黙秘したのではありません。そうでなく主イエスは神を信頼して沈黙しました。主イエスの沈黙は、神への信頼、それも確固たる信頼の表現でした。主の沈黙は「正しくお裁きになる方」、真の審判者である神に、そしてその神の審判に身を委ねています。そういう神に対する信頼の表現として主イエスは深い沈黙の時をもったのです。ですから、主イエスはピラトや大祭司カイヤファに裁かれることを重大なこととは思っていませんでした。そうでなく本当の審判は神の正しい裁きであり、神が正しく審判されることに沈黙をもって信頼し、委ねたわけです。そしてその十字架の主の身代わりによって私たち人間の罪の処断がなされました。神が罪を審判されたわけです。
主イエスの無罪性と神の審判への信頼の沈黙があって、主の十字架は主イエスと天の父なる神との共同の出来事として遂行されました。「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」であり、「そのお受けになった傷によって、いやされる」ためでした。この福音の出来事によって、新しい時代が明け染め、信仰生活はこの福音によって新しい人間にされた者が、何度でもこれを思い起こしつつ生きる生活です。そして思い起こすたびごとに、私たちの苦しみは主イエスの十字架によってすでに負われた苦しみであり、私たちの罪はすでに主御自身の身に担われ、その結果赦された罪であると感謝します。それがキリストのものとされた、キリスト者であるということ、信じて洗礼(バプテスマ)を受けたキリスト者であるということです。そのキリスト者が苦しみに逢うのは、主がわたしたちのために苦しまれたことにあずかるためです。
罪が担われただけでなく、「そのお受けになった傷」によって「いやされた」とも言われます。主イエスが受けた傷は十字架に釘づけられた傷です。それでもう十分なのですが、それだけではありませんでした。主はさんざんに鞭打たれ、茨の冠をかぶせら、鞭と棘とで全身傷だらけだったのです。そのうえで十字架に釘づけられ、脇腹を槍で刺されました。ドイツ・ルネサンスの巨所マティアス・グリューネバルトが描いた十字架の主イエスは、全身に茨の棘が突き刺さって傷だらけの壮絶な姿です。その絵は当初、病院の食堂の壁にかけられていたと聞かされます。その絵を仰いで、病人たちは自らの病が主の傷によって癒された病であると信じたのではないでしょうか。
病む人を癒すのはただ薬だけではありません。その人を癒すための他者の労苦が必要です。しかし私たちの受ける傷は他者の病を癒す力がありません。ただ罪なきキリスト、沈黙のうちに正しく裁く神に対し深き信頼を貫かれた主イエス・キリスト、まことに人にして、まことに御子なる神である主イエス・キリストが「受けた傷によって」、あなたがたは癒されたと言われます。
そうすると、私たちは「主の受けた傷によって癒された病人」です。そしてまたなお繰り返し神様の御心に背くことの多い罪の者ですが、しかし主イエスにあって「罪に対して死んだ」、そして罪赦された罪びと、「義によって生きるようにされた」罪びとです。しばしば病に苦しみますが、しかし主イエス・キリストにあって私たちは主イエス・キリストのものとされて、「すでに癒された病人」として今あります。このことは、日々を生きる喜びになり、希望をもって歩む力になるのではないでしょうか。
天の父なる神様、御子主イエス・キリストがまったく罪無く、また十字架を前にして深く沈黙したことについて、ペトロの証言に耳を傾けることができ、感謝いたします。主の御苦しみは私たちのためで、主の十字架は私たちの罪を身に担われたことと知らされました。このことが、日々の生活の中で不確かになりがちな私たちです。どうか御霊の導きにより、繰り返し、共にいてくださる主イエス・キリストを仰いで、主と共に罪に死に、主と共に義に生かされている者であることをしっかりと信じて歩むことができますように。また「主の御傷によって癒された病人」であることを覚えさせて下さい。教会のすべての兄弟姉妹、オンラインで礼拝を共にしている兄弟姉妹もまた、確かな信仰に生かされ、大きな喜びと希望のうちに主の証人として前進することができますように。この時代のすべての教会が福音を生き生きと生きて、伝え、主の御栄のために用いられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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