礼拝説教
11月3日礼拝説教
説教「『わたしにつまずかない人は幸い』とは」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
マタイによる福音書11章2-7節
待降節の人々と言えば、乙女マリアとそのいいなずけであったヨセフがおりますが、もう一人バプテスマのヨハネがいます。ヨハネはイエス・キリストの道備えをする人として、主イエスに先立って世に現われ、後から来る主イエスを指差し、この方こそ人々の待ち望むメシアであり、世の罪を取り除く神の小羊であると証言した人でした。今朝はそのヨハネが牢に捉えられ、牢の中でキリストのなさったことを聞いて人を遣わし、主イエスに聞いたという記事を読みました。そのヨハネの問いと主イエスのお答えを聞きながら、主イエス・キリストを迎える待降節の礼拝をお捧げしたいと思います。
まずヨハネの問いに注意を向けたいと思います。ヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問うたと言われます。自分の弟子たちを主イエスのもとに行かせて、そう訊かせました。「来るべき方」とはメシアのことですから、主イエス・キリストに向かって、あなたはメシアなのか、それともメシアは別の人で、その人を待つべきかと尋ねたわけです。これはヨハネが深刻な迷いの中にいたということではないでしょうか。それまでヨハネはナザレのイエスをメシアとして指差し、その道を備えるのを生涯の使命としてきました。しかし今は、本当にそれでよかったのか、イエスは本当にメシアなのか、そういう疑いの中におり、これまで生涯を懸けてやってきたことに対する確信を失っています。主イエスに対する信頼が揺らぎ、生きて来た自分の人生の確しかさは消えかかっています。自分の人生も信仰もこれでよかったのか、疑いとともに後悔も湧きかかっています。
ヨハネの問いは、私たちに縁遠い話でしょうか。そうなら幸いです。しかし私たちの信仰生活の中にも、主イエス・キリストをわが主と信じて来た人生はこれでよかったのだろうかと問う自分がいたら、それはヨハネの問いと同じ状態にいるのであって、信仰の危機に直面していることになります。
ヨハネが自分のこれまでの信仰とそれによって生きて来た人生に迷いが生じたのは、彼が牢獄の中に入れられていることと関係があったと思われます。ヨハネが牢に捉えられたのは、ガリラヤ地方の領主であったヘロデがその兄弟の妻ヘロディアと結構したところ、その結婚は律法によって許されていないとヨハネがヘロデに告げたためだったと、この後(14章)に出てきます。ヨハネの心境を推測すれば、イエスが本当にメシアであるなら、なぜその証人である自分が牢の中に捉えられていなければならないのか、なぜ、まっさきにメシアによって解放されないのか、という思いではないでしょか。
私たちの中にも主イエスが本当にメシア(キリスト)であるなら、なぜその主を信じている自分がこんな不自由な状態にいなければならないのかと疑問に問うときがあるかもしれません。自分のことでなくとも、主イエスが本当にメシアとして来られたのであれば、なぜガザでは幼子たちが多く殺され、ウクライナでも人々が苦しまなければならないのかと問われるかもしれません。
主イエスのお応えを聞きたいと思います。「イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
「わたしにつまずかない人は幸いである」と主がおっしゃったということは、ヨハネの問い、あなたをメシアと信じてよのかという問いに対し、来るべき方、メシアとして待たれる方はこのわたしである、わたしがメシアであると主イエスはお応えくださったということです。その上で御自分につまずくことがないようにと言われたのです。
「つまずく」というのは、躓いて転ぶ、転んで転落すること、つまり主イエスを信じられないで、不信仰に陥ることです。主イエスは、ヨハネが思い描いたメシアのようには見えないかもしれない、しかし本当のメシアです。「あなたはキリスト、生ける神の子」と信じて告白し、主に従うべきです。なぜヨハネはつまずきそうになったのでしょうか。それは、主イエスがメシアであることは、ただ信仰の目に見えることであって、不信仰の目にはメシアと見えない隠れた、低い状態にいるからです。天からの軍勢でヨハネを捉えている牢を木っ端微塵に砕いてはくれません。ガザを平らげ、ロシアを打ち砕き、自然災害も吹き飛ばしてくれません。そうでなくて、およそメシアとは思われない仕方で、貧しく、無抵抗で、十字架にお架かりになるメシアです。
しかし主イエスはまことのメシアですから、主イエスのいるところ、そして主イエスを信じる者たちには、神の国がその力を発揮して御国の開始を示しています。主イエスのおられるところ、目の見えない人が主にあって見えるようにされています。主にあってということは、信仰により主を信頼し、主イエスとの身近な交わりにあってということです。そのようにして、歩けなかった人が歩ける人となり神を賛美します。らい病を患っている人が清められ、主にある弟子たちの群れの中に回復されます。耳が聞こえなかった人が主にあって聞こえるようになり、何よりも聞くべき神の御業と御言葉を聞かされています。死のとりこになっていた人が主にあって命へと生き返らされ、貧し人は福音を聞かされ、神の国の資産を継ぐ、これ以上ない富む者とされています。
ですから「わたしにつまずかない人は幸いである」と主イエスはおっしゃいます。わたしにつまずかない人、つまり主イエスをまことにメシア、生ける神の子と信じ、わが主と信頼し、拠り頼む人、その人は幸いである。幸いであるとは、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われたように、あるいは「神の子である」と言われたように。神の国にあずかっているということです。すでに神の国の力、その守り、その豊さ、その平安の中にあるということです。
主イエスをメシア(キリスト)と信じ、生ける神の子、そしてわが主と信じる信仰にあるならば、主にあって、主イエス・キリストと共におり、神われらとともにいますという現実にあります。「つまずかない」、つまり主イエスをメシアと信じていることが、重要です。私たちは、信仰が重要な役割を果たす時の中にいます。罪は赦され、新しく生き返らされ、現実がたとえどんなに牢獄の如く閉ざされているように見えても、主イエスこそ勝利のキリストであって、すでに主にあって御国の力は開始されています。そのことはただ信仰によって知ることができる現実です。神の国のまったき完成の実現は約束され、その約束が成就される証拠に御霊が与えられ、「アッバ、父よ」と神を呼びつつ生きることができます。
現在の世界にもなお牢獄状態は続いていると言われるかも知れません。しかしその牢の内は主イエスの救いの勝利を信じるものには,絶望の場所でなくなっています。信仰の灯火が吹き消される場所ではありません。使徒言行録16章の牢の奥深くに足枷を嵌められて閉じ込められたパウロとシラスの場合のように、その牢内は「讃美の歌をうたって神に祈る」場所に変えられています。
主イエスがメシアであり、その勝利の力は主を信じる者たちの間で、すでに神の国の開始の力として働いています。ですからパウロは、主イエスのおられるところ「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(コリ二6・2)と語りました。それは主にあって信仰によってあずかる現実です。主にあって信じ、信じて知る現実です。しかし信仰にあって知る現実は、神の真実による現実であって、幻想ではありません。信仰なしに希望もなく生きている現実、その方が虚妄ではないでしょうか。信仰によって知る現実に信仰者は生きます。その現実はなお全き成就の時を待っています。その約束の保証に私たちは聖霊を受けて、讃美の歌をうたい、神に向かって「父よ」(アッバ)と祈れるのです。
教会は主イエスにある者の群です。主イエスの現臨に結ばれた主の体です。ですから主にあって信仰によって、見えるようにされ、歩くようにされ、清められ、聞こえ、生き返らされた者たちではないでしょうか。「主よ、あなたはキリスト、生ける神の子、そしてわれらの主」と信じ、この方こそ御国を開始してくださっている方、御国の力を発揮する方です。主イエスに対するこの信仰をしっかりと持ってクリスマスを迎えたいと思います。
天の父なる神様、「わたしにつまずかない人は幸いである」との主イエスの御言葉を聞くことができ、感謝します。主イエスを神様が私たちに遣わしてくださったメシアと信じ、主イエスにあって神我らと共にいますと信じることができますように。またその信仰によって、この待降節の日々を喜びのうちに過ごすことができますよう、聖霊を注いで導いてください。主イエスにあって、すでに神の国の開始の力が働いていることも信じ、希望をもってあなたを証しすることができますように。いま牢獄のような現実の中におかれている人がおりましたら、どうか主イエス・キリストの臨在を信じ、讃美を歌い、祈りのうちに、あなたの御力によって生きることができますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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