教会はあなたのご来会をいつでも歓迎いたします!

礼拝説教

礼拝説教

説教「世にある生活の二つ原則」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師

  ペトロの手紙Ⅰ 2章11~12節

 キリスト者は主イエス・キリストによる罪の贖いによって「神われらと共にいます」という恵みの中に置かれていると信じています。それは、神との和解を受けて、神との平和な関係の中に生かされていることですが、神に対して生きながら、同時に人々の間に生きているのが私たちです。人生が二つあるわけではありません。神との関係によって生かされる人生を、人々の間で、人々との関係の中でも生きているということです。

 今朝の冒頭の御言葉はそのことを指しているのではないでしょうか。まず「愛する人たち」とあります。精確に言うと「愛されている人たちよ」という呼びかけです。「愛されている」とは、言うまでもなく、「人々から」ではなく、「神から愛されている人たち」という意味です。神から愛されているので、お互いにも愛し合っていると言えるでしょう。しかし重大なのは神に愛されていることです。ペトロの手紙は、これまではただ「あなたがた」と呼びかけてきました。「あなたがた」というのは「神に選ばれた人たち」でした。神の選びに基づいて「あなたがた」と呼んできたのです。それがここでは、その選ばれた人たちは「愛されている人たち」だと明言されます。神から選ばれ、そして愛されている人たち、神にとって特別な掛け替えのない人たちです。その「愛されている」あなたたちに「勧めます」と言うのです。

 キリスト者にされたことは、神によって愛されていることです。それは私たち自身の努力によったわけではなく、ただまったく主イエス・キリストにある恵みによってのことであり、まったく幸いなことです。主イエスによる贖いをとおして神の愛の中に入れられ、この上なく幸いな者、神の子とされた素晴らしい人生に入れられました。キリスト者はもうすでに神の子とされたことで、幸福であり、満ち足りて生きていることをひょっとすると忘れている場合があるかも知れません。しかし事実、主にあって神われらと共にいますということがどれだけ幸せなことであるか、それこそ何にも優って事実です。主イエス・キリストにあって神の子とされていて、それでも幸せでないとか、不満足だと言うでしょうか。この上なく幸いな素晴らしい人生、溢れるばかりの神の恵みのある人生に生かされていることをキリスト者は思い起こすべきです。

そしてその人生をどう歩むか。そこに「勧め」があると言われているわけです。すでに神の子とされた素晴らしい人生を我儘勝手に生きようとはだれも考えないでしょう。神に愛されている者たちには、その人たちだけに与えられる「勧め」、「使徒的な勧め」が示されます。

 「勧める」という言葉は、「慰める」とも訳される言葉です。神に愛されていることに生きる根拠を持った生活は、押しつけがましい戒めや命令を受けるはずはなく、憐れみと赦しに基づいた「慰めに満ちた勧め」を受け取ります。柔らかに支えながらの慰めの励ましです。それがここに記されます。

 神から愛され、そして選ばれたことは、神が共にいてくださる者とされたことであり、神の御国に属する者とされたことでもあります。私たちの本国は神の恵みが統治するところです。そうすると、キリスト者として世に生きることは、本国にすでに加えられながら、その本国のまったき到来を待ちつつ、地上の生活を「旅人」として歩み、この世の生活を「仮住まい」として過ごします。それで、キリスト者の世にある生活の原則が語られます。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。これがペトロが言うこの世に生きるキリスト者の生活原則です。「旅の恥はかき捨て」として生きる身勝手な原則ではありません。「肉の欲を避ける」と言います。
「魂に戦いを挑む肉の欲」とあるのは、いわゆる霊肉二元論によって肉体を否定し、精神だけの生活を主張しているわけではありません。聖書は肉体をもって生きる生活を軽蔑しません。主イエスが祈りを教えた時、「我らの日用の糧を今日も与え給え」とまず祈るように教えたことを忘れてはならないでしょう。神は私たちの日毎の食事を配慮される方です。

 それでは「肉の欲」とは何でしょうか。いわゆる肉体生活、食べること、眠ること、着ること、そして結婚すること、子を生むこと、衣食住や結婚生活など、体を持って生きる命を聖書は積極的に肯定します。それらはみな神の祝福のもとにあるからです。そうすると、「肉の欲」というのは、そうした体のことでなく、「神との関係を引き裂こうとする衝動」のことです。ガラテヤの信徒の手紙に、パウロが「肉の業」を記した箇所があります。「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い,そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラ5・19以下)と言います。「肉の欲」は肉体そのものというより、むしろ肉体を巻き込んだ精神的なものという方が当たっているでしょう。

この「肉の欲」が戦いを挑む「魂」の方は、肉体のない精神のことではありません。そうでなく、肉体も精神も両方持った全体としての人間が神との平和な関係に生きている、そういう人間のあり方、人格のあり方が「魂」と言われるわけです。魂とは神との和解に生きる人間のこと、そして神に愛され、神と共に生きる人間、それがここに言う魂です。それに対して戦いを挑む肉の欲があると言います。ですから、肉の欲とは、体の話でなく、神と共に生きることを引き裂こうとする、神関係に生きることを妨害しようとする人間の姿勢です。それを避けなさい。それから遠ざかりなさい。それをあなたの関心の中心に置くことはやめなさいということです。神に愛されていることとそれに応えて生きる人間のあり方を中心におき、それに戦いを挑む在り方からは遠ざかるように。「神に愛されていることによる神関係」を中心にして、神から引き裂こうとするものを中心には置かない。それが人々の間に生きるキリスト者たちの生活原則だと言うのです。

 もう一つの原則が語られます。それは世の人々に対してどう生きるかです。異教徒の間で「立派に生活しなさい」とあります。原文は「よく生きる」、あるいは「よい業」という言葉が使われています。しかも「よい業」によって自分を救うという話ではありません。「神に愛された人たち」が人々の間で「よき業」に生きると言われます。すると「よい業」は、その人自身にとって救いをもたらすのでなく、すでに神から愛されたことによって救いに入れられている人たちが「よき業」に生きることが、世の人々にとって重大な意味をもってくるという話です。

 異教徒の人々とわざわざ記されているのには、「彼らはあなたがたを悪人よばわりしている」という事情も含まれています。キリスト者たちは世にあって悪人よばわりされることがありました。聖餐式が密かな悪事のように誤解されたこともあります。今ではそれほどあてはまらないと思われるかもしれませんが、日本でも戦時中は「敵を愛せ」と言ったために厳しい取り調べを受けたり、「非国民」と言われたりもしたものです。

 しかし「よき業」をもって人々の間に生きよ、と言われます。それがあなた方を救うからではない、あなたがたはすでに救われており、神に愛されているからです。しかしあなたがたが「よき業」をすることは、世の人々にとって重要な意味を持つと言います。その意味とは、世の人々があなたがたのよき業を見て、「訪れの日に神をあがめるようになる」からだと言うのです。「訪れの日」というのは、世の最後に訪れる神の審判の日です。終りの時ということです。あなたがたが「よき業」を生きることが、ただちに世界を変えるとは言われてはいません。聖書はオプティミステックな約束はしません。むしろ、世の人々がキリスト者たちを悪人呼ばわりする状態はなお続くでしょう。しかしその中で「よき業」に生きること、そのことは決して無駄ではなく、「訪れの日」にはその結果を出します。彼らもまた神をあがめるようになると言うのです。その人々の神関係に影響を与えることになります。キリスト者のよき業は、キリスト者の救いには役立ちません。しかし他者の救いに役立ちます。その人が神をあがめるようになることにきっと役立つ。御言葉を信じて、「よき業」に生きると言う第二の原則も大切にしたいと思います。

祈り:
聖なる、天の父なる神様。御言葉によって、もう一度あなたから憐みを受け、子とされ、愛されている、主にある事実に思いを向けることができまして、感謝いたします。あなたから聖なる愛によって愛されていることをこの上ない幸せとして覚えることができますように、そしてあなたから背かせようとする「肉の欲を避ける」ことと、悪意ある人々の中にあっても「よき業」に生きるようにとの勧めに従うことができますよう、どうぞ御霊を注いで、力づけてください。教会のすべての兄弟姉妹、とりわけ幼子たち、高齢の者たち、それにとりわけ困難の中に身を置いている者たちの上に、あなたの慰めと勇気づけが与えられますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。

 

      1000礼拝堂赤

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional