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礼拝説教

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説教「一粒の麦」 長山 信夫牧師
  
  ヨハネによる福音書12章20-26節

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」有名な主イエスの言葉です。ご自身の十字架の意味を弟子のアンデレとフィリポに語った重要な場面です。

 12章1節には「過越祭の6日前」とあり、12節には「その翌日」とあります。過越しの小羊を屠るのは金曜日、教会暦では主イエスが十字架に死なれた受難週の受苦日ですから、ユダヤ教の安息日の翌日日曜日ということになります。世界中からユダヤ教徒がエルサレムに集まりました。過越祭はユダヤ教の三大祭の一つでユダヤ教徒は一年に一度3つの祭りのどれかに参加することが義務付けられていたのです。主イエスが十字架に死なれたときは特別でした。主イエスがラザロと共にエルサレムに来られたからです。9、12、13、17,18節にこうあります。

 「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。……その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。…… イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」
 主イエスが十字架に架けられた年のエルサレムが、わたしたちの想像以上に騒然とした状況であったことがわかります。

 15世紀のオランダの画家ヒエロニムス・ボスはその様子を描きました。大勢の男女の顔がキャンバス一面に描かれています。その中を十字架の横木を担がれて歩む主イエスのお姿があります。
大勢の群衆に注目される中、主イエスはロバの子にお乗りになりました。他の福音書では「主がお入り用なのです」との言葉とともに弟子たちにあらかじめ用意させていますが、ヨハネによる福音書では突然のように描かれています。それはラザロの復活に先立って姉マルタに宣言された主イエスのお言葉の意味を群衆に伝えるためではないでしょうか。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (11章25-26節)

 信じる者に死ぬことのない命をもたらす神の子の絶大な力は、どのように用いられるのか。その象徴がロバです。
 ロバは挽き臼を引いたり、重い荷物を運ぶために用いられました。とても従順な動物で、馬と違っていつでも頭をたれている姿からは謙遜を感じます。平和の象徴でもあります。

 主イエスは平和を繰り返し告げておられます。

 14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 」16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」復活の主は「あなたがたに平和があるように」と繰り返し祝福してくださいます。

 主イエスが与えてくださる平和とは何でしょうか。平和とは神が共におられるということです。罪人である人間が神と共に在ることはできません。裁きを受けなければならない存在です。しかし主イエスはご自身の受けられる十字架において人間の罪を贖い、その罪を帳消しにすることによって、信じる者たちが罪人であるにも関わらず、過去の罪も現在犯している罪も、さらに将来犯すに違いない罪もすべて贖い償ってくださるのです。

 主イエスはロバに乗ったお姿によって、「ホサナ」と叫び歓呼する多くの人々を平和へ招いておられるのです。「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と嘆くファリサイ人たちも例外ではありません。

 「一粒の麦」と弟子たちに主イエスが語り始めたきっかけは、異邦人である数人のギリシヤ人たちが「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」とフィリポに頼んできたことでした。それを聞いた主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と宣言されて「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」と語り始められていたのです。ユダヤ人だけでなく異邦人であるギリシヤ人も、つまり全ての人々をイエスは神とともに在る平安、まことの平和へと招いておられるのです。主イエスの十字架は、信じるすべての者たちに命をもたらす真の救いなのです。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(26節)と言われました。

 12章には主イエスと共にいる幸いな人々がいました。復活したラザロ、給仕に励むマルタ、主イエスに香油を塗り主の埋葬に備えたマリヤ、「ホサナ」と主を賛美する群衆、ギリシヤ人の願いを主イエスに取り次ぐフィリポとアンデレ、主イエスの十字架がもたらす真の平和へと、今わたしたちも加えられていることを感謝しましょう。

祈り 慈しみ深い父なる神様、御子イエス・キリストの十字架の贖いにより、あなたに仕える者として主と共に歩ませていただき、真の平和へと招き入れられている幸いを感謝します。主イエス・キリストの御名により祈ります。  アーメン

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