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礼拝説教

2月2日礼拝説教

説教「神を畏れる信仰の力」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師

  ペトロの手紙Ⅰ 3章1-6節

 人間の生活は、時代の変化と共に変わる面があります。結婚生活や家族の在り方もそうでしょう。かつては家父長主義による家族でしたが、最近の家族は随分と異なり、結婚のあり方も変化し、さらに変わっていくように見えます。今朝の聖書の箇所は、教会の結婚式の中で「妻に対する教え」として読まれてきた箇所です。ここには時代と共に変わっていく夫婦の有り様ではなく、どんな時代の結婚の中にも変わることなくあり続ける真実なあり方が語られています。

 この個所は、「同じように」という言葉からはじまります。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」。「同じように」とは、何と同じなのでしょうか。前の章からの続きで、2章の18節には「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい」とあります。「同じように」というのは、「召し使いたち」、つまりキリスト信徒となった奴隷たちが主人に従うのと「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と言っているわけです。聖書は妻たちを奴隷扱いしているのでしょうか。

 古代社会では、ユダヤ人社会もローマ人社会も家父長主義社会の中で、妻たちはいわば夫の所有物のような扱いを受けていました。男女平等の制度はありませんでした。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」。そう語る聖書は、その時代の家族関係を平等関係に変革しようとしていません。しかしこのあとの7節をみますと、「同じように、夫たちよ」と続きます。そして「妻を・・尊敬しなさい」と語ります。
つまり「同じように」は、妻たちと奴隷にだけでなく、すべての夫たちにも言われ、奴隷も妻も夫もだれもが「同じように」仕える、そういう仕方で結果的には誰もが平等である方向に向かっています。

 ただし聖書が重大としているのは、時代の社会や家族のあり様ではなく、どんな社会や家族の制度であれ、そこに「信仰によって共に生きる」ことです。そして誰であれ「同じように」「仕える」生活、信仰によって仕える生活です。だから「同じように」奴隷は主人に仕え、妻たちもその夫に、また夫たちも妻たちに「同じように」振舞いなさいと言います。

 妻たちに対するこの言葉の中で、信仰は「神を畏れる信仰」と言われます。そしてそこから「純真な生活」が結果します。「神を畏れる」ということは神を恐怖することではありません。恐怖は、神から遠ざけ、逃げ去ろうとさせるでしょう。「畏れ」と訳されているのは、神に惹きつけられ、神を仰ぎ、神を敬い、神に信頼し、まことに神として真剣に、そして真実に、ただ神のみに身を委ねる信仰、そういう信仰にある畏れです。ペトロの手紙は全体にわたり、繰り返し神を畏れる信仰を語り、その信仰によって奴隷も場合はその主人、妻の場合はその夫、そして夫の場在はその妻に仕える生活をもたらします。

 神をまことに神として畏れ、敬い、信じて生きるとき、その生活は清められ、奴隷も主人も、妻も夫も、男も女も何ら本質的な区別でなくなり、互いに仕える生活になるでしょう。神をまことに神として真実に畏れ、敬い、信じて、決して神を侮ることがない信仰、そこから清い振舞いが、誰にでも「同じように」生まれるのではないでしょうか。

 婦人たちの振舞いの特徴として「無言の行い」が語られます。「神を畏れる純真な生活」は「無言の振舞い」の中に現われると言うのです。そしてそれが決して無力ではない、力を発揮することが記されています。それによって夫が信仰に導かれるようになるとあります。「信仰に導かれるようになる」とあるのは、正しくは「得る」「獲得する」という言葉です。この言葉の用法は、使徒パウロに出てきます。「わたしは、・・・すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」(コリ一9・19)。この「得る」という言葉がここに使用されています。その人が神のものにされ、救いに入れられるのが「得る」、「獲得される」です。妻たちの無言の行いによってそれが起きると言うのです。神を正しく畏れる信仰は力を持っています。「無言の行為」を生み、その夫が神の救いの中に獲得されると言われます。「神を畏れる純真な生活」は無言のうちに伝道の力を発揮します。神を厳粛に信じることは、決して無力なことではありません。その信仰を神が用いて力を発揮させます。

 伝道はもちろん人間の思い通りに進むわけではないでしょう。私たち人間の勝手になるものではありません。しかし神は、キリスト者である妻たちの無言の行いを無駄にはなさらない。御自身の救いの御業が前進するのにお用いになります。

 初代教会の時代、信仰のない夫に仕えたキリスト者夫人は多かったと言われます。教会は信仰のない人との結婚を否定したり、離婚を勧めたりはしませんでした。日本でも同じように未信者の夫に仕えて苦労するキリスト者夫人の話は聞かれます。聖書は妻の無言の行いの成功や失敗を語っているわけではありません。伝道の成功や失敗は人の目には分からないものです。神はその憐みの中でキリスト者婦人の無言の振舞いを無駄にせず、伝道する力として発揮させてくださると語っています。

 妻たちのことが語られる文脈で、婦人の装いのことも語られます。婦人の装いというと、金の飾りや派手な衣服のことと思われがちです。古代人も豪華な服飾品や金の飾りを大切にしたことは、お墓から発掘される装飾品などによって知られています。しかしそうした飾り物でなく、「神の御前でまことに価値あるもの」として、「柔和でしとやかな気立て」という「朽ちないもの」を心の内に秘めた人であることが語られます。「神の御前でまことに価値あるもの」が重要なのであって、神を畏れ敬いその「御前」にあるとき、本当に価値あるものは何かがわかるでしょう。逆に言えば、神を畏れ敬いつつその御前に生きることを失ったなら、何が本当に重大であるか、分からなくなります。現代にはそれが起きているのではないでしょうか。「神を畏れ」「その御前」に生きることを、もう一度回復しなければならないでしょう。

 妻たちの信仰の関連で、「神に望みを託した聖なる婦人たち」という言い方がされています。「神を畏れる信仰」は「神に望みを託す」のです。神を畏れ、敬い、神をあなどらず、まことに神として信じる信仰は、希望を神に託すでしょう。世の中には色々な困難があり、私たちに降りかかる試練は多い。困難と闘い不安や疲労の中で、世界と人生のことは何もかも、結局、最後は絶望ではないか、そう思われるかもしれません。しかし神を畏れる信仰はそうは思わないのです。神は主イエス・キリストにあって、とりわけ主の十字架と復活において深い憐みと大きな力を発揮されました。神のその憐みと恵みの力は変わることなく働いています。神を畏れる信仰の人はこの神に望みを託し、決して絶望しない、希望を失わないのです。

最後にペトロは、夫に従うキリスト者婦人をアブラハムの妻「サラの娘たちとなる」と語っています。パウロが信仰の手本をアブラハムに見て、「信仰によって生きる人々こそ、ブラハムの子である」と語ったのと呼応しています。サラはアブラハムを主人と呼んで、彼に服従したと言い、「善を行い、また何事も恐れない」と語っています。弱いと見られる婦人が、神を畏れる信仰によって「善を行い、また何事も恐れない」と言うのです。恐れることの多い、心配事の耐えないこの世界です。その中でキリスト者である婦人たちは、「何事も恐れない」と言われます。神を畏れ敬い、神に希望を託す婦人は「何事も恐れない」のです。まことにそのとおりだと思います。

 主イエス・キリストの父なる神様、あなたはわたしたちのまことの神、すべてのものの造り主、あらゆる出来事のまことの主でいらっしゃいます。あなたをまことの神として、主イエス・キリストにあって畏れ、信じ、そしてあなたに希望を託すことができますように。また、主にある婦人たちをはじめ、私たちそれぞれの無言の行為があなたの伝道に用いられますように。どのような時にもあなたを正しく畏れて、あなたに希望をかけ、世の一切の災いや困難のゆえに絶望に陥ることがありませんように、助け導いてください。主イエスにあってあなたを信じ、畏れ、尊ぶゆえに、互いに仕え合い、善き行いをなし、何事も恐れることなく、あなたの証に日々を送ることができますように。御子・主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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