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礼拝説教

礼拝説教

説教「すべてはあなたがたのため」  長山 信夫牧師
    
   コリントの信徒への手紙二4章1-10節

 「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8-9節)とパウロは語ります。「わたしたち」が主語ですからパウロ一人のことではありません。この手紙の受取人であるコリントの教会の教会員も含まれていることになります。パウロの説く福音によってキリスト者となっているわたしたちも同様だということでしょう。

 四苦八苦、八方ふさがりというだけではありません。「四方から苦しめられ」、迫害を受けて勝ち目がない状況に追い込まれている。それがわたしたちの置かれている現状だというのです。頻発する自然災害の原因は地球温暖化によることを誰しも認めざるを得ません。戦争が起こり、危険は極東の地にまで及んでいます。2000年前のコリントの教会の窮状は、今日全世界の置かれている危機的状況でもあるのです。

 そうであれば、それでも「行き詰らず」「失望せず」「滅ぼされない」と語るパウロの強い言葉とその根拠に、わたしたちは深い関心をもたなければなりません。

 パウロは、苦難とその対処を他人ごととしてではなく、自分の経験を通して語っています。自分に向けられている攻撃の言葉を、パウロはある程度やむを得ないこととして受け入れているように思えます。「卑劣な隠れた行為」「悪賢く歩む」「神の言葉を曲げている」。どれもパウロの人格を否定するひどい言葉です。かつてキリスト者を迫害していたサウロと、キリストに救われ福音を伝道するパウロとは、復活のキリストとの出会いを中心に180度変貌しています。キリストを宣べ伝える者へと変えられた自分を誤解する人がいても、それは当然なことと受け止めたのでしょう。

 3章7-11節に、自分にゆだねられている務めについてパウロはモーセを引き合いに出して語ります。
自身については誇らしげにこう語っています。「霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか」(8節)、「人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています」(9節後半)。

モーセについては「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかの間の栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめ得ないほどであったとすれば」(7節)とか、「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば」(9節 前半 )と語り、より劣るものとしています。

自分の務めはモーセの務めよりも優れているとパウロは言います。他人を救うのは律法の行いではなく、キリストの十字架と復活による罪のゆるしと新しい命なのですから、彼の言う通りなのですが、「神の言葉(旧約聖書)を曲げている」との批判がパウロに向けられても止むを得ないのではないでしょうか。

しかしパウロは自己を誇るつもりはないのです。「憐みを受けた者としてこの務め(福音伝道の務め)をゆだねられている」との言葉によってそれが分かります。自分の努力や学問を根拠にゆだねられたのではありません。神の教会を迫害した者が、福音の使徒に変えられたのは神のあわれみ、神の御旨によること以外にはないことをパウロはいつも忘れることはなかったのです。神は見捨てることはなさらない。物事がうまくいかない時にも神のあわれみによって支えられて来たからです。

 コロナ禍にあって中断していた木曜日午後の「聖書の学びと祈り会」では創世記を1章ずつ学んでいます。天地創造の神は祝福をもってわたしたちに関わってくださる。創世記のキーワードは「神の祝福」であると確信するに至りました。罪を犯したアダムとエバの末裔であるわたしたちは、楽園であるエデンの園を追放されていますから、わたしたちはいつも罪とその混乱の中に居ます。信仰の人アブラハムも例外ではありません。過ちを犯し窮地にしばしば陥ります。信仰の父祖たちの醜い罪の姿に、そこから何を学んだら良いのかとしばしば戸惑います。人に注目すればそのとおりですが、聖書の主人公は神です。困難に巻き込まれている人に、神がどのように関わってくださるかに関心を向ければ、絶えず祝福し、いつも共にいて道を開いて歩んでくださるインマヌエルの主のお姿に出会うことができます。

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(6節)は、一つは創世記1章3節の出来事です。混沌として闇が深淵の面にあった天地に、神はまず光を創造してくださいました。光り輝く世界の誕生です。もう一つは、罪の支配するわたしたちの心の闇の中に光を輝かせてくださった神の栄光です。使徒言行録9章にあるパウロの救いの体験です。

 救いは自分一人だけのものではありません。神は罪に支配されているすべての命を救ってくださる方です。それを神の独り子主イエス・キリストによって成し遂げてくださいました。救いは「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)主イエス・キリストによります。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7節)旧約聖書と新約聖書を貫いて明らかにされている神の祝福、神の愛、神のあわれみに堅く立って、福音に歩んでまいりましょう。

 9日は長崎に原爆が投下された日でした。記念式典で3年ぶりにコーラスがありましたが、メンバーが年をとって今年が最後だとのことでした。最高齢のメンバーがインタビューに応えて語っていました。
「被ばくの経験を通して、戦争は2度と犯してはならないと感じてきた。心の中に思っていることを伝えなければ本当にそう思っていることにはならないと気付き、コーラスに参加してきました。」
わたしたちも声を合わせてパウロと共にこう伝えましょう。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(8-10節)と。

祈り
天地を造り、愛と祝福とあわれみをもって支えてくださる
主イエス・キリストの父なる神様。
混沌としてどのようにしたら良いのか分からない世界を、今も力強い御手をもって導いてくださっておられることを信じて感謝します。あなたの御業を伝える器としてわたしたちをお用いください。
 救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

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