教会はあなたのご来会をいつでも歓迎いたします!

礼拝説教

礼拝説教

説教 「祈りは喜びに」 長山 信夫 牧師

 ヨハネによる福音書16章12‐24節

 祈りへと主イエスは繰り返し促されます。「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」は山上の教えでの主のお言葉です。「そうすれば与えられる。そうすれば見つかる。そうすれば開かれる」との約束が告げられています。マタイによる福音書7章にあります。

 ヨハネによる福音書では16章の今日の御言葉です。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」 (16章23‐24節)とあります。

マタイでは「誰でも」とありますが、ヨハネには「あなたがたが」と弟子たちだけに限定されています。祈りは誰にでも開かれています。けれども主イエスは信仰者の祈りを引き受けてご自身の祈りとして父なる神に取り次いでくださるのです。それがヨハネによる福音書の祈りの勧めの特徴です。15章16節ではこの点が強調されています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。……わたしの名によって父に願う者は何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」とあります。信仰者の祈りには祈りを聞いてくださる絶対者との深い絆が形作られているのです。そこには満たされ溢れでる喜びがあります。
 
 13章から続く長い説教が終わりに近づいています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と主イエスは弟子たちに語り始められました。「見なくなる」については主の死を意味していることを弟子たちは知っていました。「見るようになる」は復活を指していることをわたしたちは知っています。弟子たちにはまだ確信がなかったのではないでしょうか。13章にペトロとの会話が記されています。
 「主よ、どこへ行かれるのですか」とペトロが問うと「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」と主は答えられました。「行く所」は主イエスの死を意味していることを知っていたペトロは「なぜついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」といます。「後でついて来ることになる」を理解していたなら、むしろペトロはその時を待って生きていなければならないと決意すべきだったのです。

 弟子たちは主が語られた重要な言葉を覚えていました。それは「父のもとに行く」です。主イエスの死は死で終わりません。父なる神とわたしたちの主との一体です。死を通してそれが明らかになるのです。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と14章6節で主はすでに語っておられたのです。主イエスは父のもとへとわたしたちを導く道であられます。主イエスの死は別れです。見えなくなります。しかし、しばらくすると見るようになる」。それは主のおられるところにわたしたちもいさせていただき、そこには父なる神も共におられるのです。

「真理」とは父なる神と御子イエス・キリストとの関係です。真実であり、真理です。偽りのかけらもないのです。父なる神はご自身の被造物である世を愛して、そこには偽りのかけらもありません。真実であり、真理です。「独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)とある通りです。

主イエスは死んで父なる神のもとに行かれます。それによって主を信じる者たちも父のもとへ迎えられるのです。「しばらくすると」「見なくなる」主が死んで、父なる神のもとに行かれるからです。「しばらくすると」「見るようになる」のは主が復活して信じる者たちの所へと来てくださるからです。

 主イエスの十字架と復活は「しばらくすると」との言葉で結ばれています。「しばらく」とはギリシャ語で「ミクロン」小ささ、短さを表します。1ミクロンは1000分の1ミリで赤血球や細胞の大きさです。「死と命」、「見ると見ない」、「悲しみ、悲嘆、苦痛と喜び」これらは正反対の言葉で互いにかけ離れたものですが、主イエスにあってはそれは「ミクロン」なのです。

 「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節)。
イエスが見えないことは、世にとっては喜びです。イエスの絶大な力を証明する復活したラザロの否定をも企てるほどです。しかし信仰者にとっては、それは「ミクロン」なのです。主イエスにあっては、悲しみは喜びに、死は命に、闇は光に変えられるのです。主イエスは「道であり、真理であり、命である」からです。1章12,13節にこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 16章21節では、子どもの生まれる時の苦痛と、生れ出た喜びのたとえで説明しています。その喜びは母親が子の誕生の喜びで苦痛を思い出さないほどなのだというのです。ヨハネによる福音書では復活のキリストの御体の傷に言及しています。手のひらの釘跡であり、腹に刺さった槍の跡です。復活の主は弟子たちにそれを示しながら「あなたがたに平和があるように」と祝福されるのです。

 「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23,24節)。

 祈りの勧めです。「尋ねる」も「願う」も祈りを示しています。わたしたちの祈りには、これがみ心に適うかどうか危惧する不安が伴います。しかし、もはやびくびくする必要はないのです。父なる神と御子イエスとキリスト者たちとは「道であり、真理であり、命である」方によって一つだからです。

<祈り>
父なる神様 主イエス・キリストによってわたしたちをみもとに迎え入れてくださり、
あなたの喜び、愛、希望に招き入れてくださっていることを教えられ、心より感謝いたします。
 この祈りを主イエスの御名によってささげます。  アーメン

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional