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礼拝説教

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 説教 「信仰の証拠」 長山 信夫牧師

  ヤコブの手紙1章19-27節

 「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している12部族の人たちに挨拶いたします。」ヤコブの手紙冒頭の言葉です。パウロの手紙の挨拶とは比べようもない簡略さです。それでも、重要なことが分かります。

まず「ヤコブ」です。主の兄弟で、イエスの復活を目の当たりにしてキリスト者となり、エルサレム教会の柱となった重要な人です。「神の僕」は預言者を示す言葉で、そのヤコブが「主イエス・キリストの僕」でもあることを告白しています。父なる神と御子イエス・キリストに忠誠を誓った権威ある人の手紙です。

「離散している12部族」とは、ディアスポラのユダヤ人、世界各地に散っている神の民全体を表しています。ヤコブによる、ユダヤ人キリスト者たちにあてた書簡ということになります。

 ガラテヤの信徒への手紙で知るユダヤ人キリスト者たちは、パウロの福音信仰に反して、律法も重要であり、中でも創世記17章で神がアブラハムと結んだ永遠の契約、そのしるしである割礼を守られなければならないと主張し異邦人教会を混乱に陥れていました。福音はすべての人を救いへと招いているのですから、ユダヤ人キリスト者をも導かなければならないのは当然です。この困難な使命を果たすのに最もふさわしい使徒が主の兄弟ヤコブであることは明らかで、そのヤコブがユダヤ人キリスト者に何を語っているのかは重要だと思います。

「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(2章17節)と語り、繰り返し行為の重要であることを説くヤコブ書は軽んじられてきました。けれども、洗礼を受けキリスト者となったわたしたちもその後の歩みはこれでよいのか、切実に導きを求めているのではないでしょうか。
19節で「わたしの愛する兄弟たち」と、ヤコブはユダヤ人キリスト者たちに呼びかけています。信仰の兄弟姉妹の交わりの中でどのように生活すべきかを語っていることが分かります。

「聞くのに早く、話すのに遅く」は、一般にも知られている格言です。誰でも、まず聞き、よく理解しなければならないことを知っています。わたしたちはしばしば、聞くよりもまず語ろうとするからです。自分を理解してもらいたいという欲求は抑えがたく、語ろうとします。ヤコブは「怒るのに遅いようにしなさい」と付け加えています。

礼拝が終わった後の会話はいつも弾みます。楽しい交わりが続きます。今はコロナ禍のため「コーヒーアワー」も「シオンの会」も再開できませんが、ヤコブは楽しい会話を制限しようとしているのではありません。そうではなく、怒りを伴うやり取りの禁止です。「人の怒りは神の義を実現しないから」と理由を明らかにしています。わたしたちが怒るのは、相手の方に、許してはならない過ちがあるからでしょう。しかし、裁くのは神です。怒る人はいつの間にか、神の立場に自分をおいて裁くことになります。神は罪人を救うために独り子を犠牲にされる愛を示しておられるのに、神の救いのわざに割り込んで怒りをぶつけて相手を裁いてしまうのは大きな過ちです。

「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」(21節)と同様「怒り」は悪の一つ、欲望のはけ口となっているのです。「素直に捨て去り、心に植え付けられ」ている御言葉に従うべきです。御言葉こそわたしとその人の魂を救うことができるのです。

「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」は主イエスの山上の教えの御言葉です。「おとなしい」の反対語に「ややこしい」があります。漢字で「おとな」は「大人」、「ややこ」は「稚児」と書きます。妬みや、争いの絶えないコリントの教会について「乳飲み子である人々」とパウロは忠告していることを思い起こします。
御言葉を受け入れ、御言葉を行う人になりなさいとヤコブは勧めます。御言葉を聞くだけで行わない人は、自分を欺いていると𠮟責しています。

山梨県都留市にある谷村教会に3年余仕えました。山梨と信州はカナダメソジストの伝道地で、谷村教会も小さな古い教会です。そこでわたしは初めて教会の伝統ということに目を開かれました。メソジストの良さを知ったのはそこででした。それ以来、銀座、鳥居坂、安藤記念とメソジスト教会に仕えさせていただき、恵まれていると感謝しています。

 教会は大神宮の入り口にあり、寺院の多い寺町でした。それだけに、教会員はいろいろ工夫して信仰生活を送らざるを得なかったと思います。駅近くで大きな洋品店を営んでいる方は、町内会との付き合いに苦労していました。昔、谷村に大火が起こり、村はほとんど焼失してしまいました。その時、焼けなかった祠(ほこら)があり、毎年まつりが開催され、寄付が集められていました。「祠が燃えて皆が焼け残ったのなら寄付もするが、自分だけ焼けなかった神さまに寄付はしない」と断ったと話してくれました。よく言ったと感心しました。ある会社勤めの教会員は皮肉屋で、「寺は金がかかるというが、クリスチャンは毎週礼拝に来て献金しているので、教会のほうがよっぽどかかる」といって困らせました。その人が、「日曜日礼拝の時はその通りと思って決心するのだけれど、教会を一歩出るとすっかり忘れてしまう」と嘆いてみせたことがありました。

ヤコブは「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」(23,24節)と言っています。鏡に自分を映すのは、身繕いをしておかしい所を直すためでしょう。御言葉を聞くだけで行わないのは、恥をさらして歩き回っているようなものだと言いたいのです。

神の言葉は単なる鏡ではありません。ヤコブは「自由をもたらす完全な律法」と言っています。律法は、ああしなさい、こうしてはならないと人を束縛するものです。自由とは相いれません。ヤコブが律法と自由を結び付けているのは、それが石の板に刻まれた戒めではなく、救い主イエス・キリストがキリスト者の心に刻んでくださった新しい掟だからです。「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)の前で、わたしたちは礼拝をささげているのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」とパウロは叫んでいます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネによる福音書15章12節)と主は命じておられます。主イエスの愛に生かされて、わたしたちの日々があるのです。行いへと実を結ばない信仰はあり得ないのです。

「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人」の行いとして27節にこう記されています。
 「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること。」当時の社会で、みなしごや、やもめは最も弱い存在でした。ですから、すべてを神に委ねて、神に頼る信仰の模範となりました。教会では最も尊敬され、大事にされるべき人々でした。世の人々はそのように歩む教会を、まことの信仰を生きる人々として注目したに違いないのです。こうして伝道は伸展していきました。

祈り 
主よ、あなたの御足跡を辿り、信仰と愛に生きる者としてください。教会と幼稚園にあなたの恵みが満ち、世に証しする教会となることができますように。主の御名によって祈ります。  アーメン

sssLily 2021-9

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