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礼拝説教

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説教 「空の空の空、だからこそ」 長村 亮介 牧師

 コヘレトの言葉1章1-6節、
 マタイによる福音書5章3節

「コヘレトは言う。
 なんという空しさ
 なんという空しさ、すべては空しい。」と。

前の口語訳では、
「空の空、空の空、一切は空である。」
とあります。この言葉は一見すると何の慰めにもならないように思います。しかしこの言葉は、苦難のただ中にある者の心の声そのものです。

 実は去年から今年にかけて、NHKの「心の時代」で「それでも生きる」と題して「コヘレトの言葉」が採り上げられていました。そしてその講師として東京神学大学の小友 聡先生が講師をされていて、とても有益な機会と示唆をいただくことが出来ました。

 私は昔この御言葉を聞いたとき、このような言葉が聖書にあるということにとても違和感を覚えました。それは神さまを信じている者、クリスチャンともあろう者が「すべては空しい」などと言うことは不信仰なことで、そんなことを言ってはならないように思っていたからです。ところが今は、この「コヘレトの言葉」は聖書になくてはならない大切な一巻だと思っています。

 私たちは困難の中にある時こそ聖書を読んで、御言葉の力に与りたいと願う者です。私も様々なことが起こる度に、普段にも増して聖書を読んできました。しかしそういう時に読む聖書は、どうしても御言葉が私の心の奥に入って来ないということが少なくなかったのです。それがある時、この「空の空、空の空、一切は空である。」との御言葉がとても私の心に染みたのです。ともすると「コヘレトの言葉」は難しいと思っている方もおられるかも知れませんが、今朝の、
「なんという空しさ
 なんという空しさ、すべては空しい。」
との御言葉は、自分の心を聖書が代わりに吐露してくれているようにさえ読めるのです。

神さまの御言葉が自分の心の言葉を語って下さる。それは主イエスが神の独り子であったにも関わらず、人となって私たちの間で生きて下さったように、神さまの御言葉が肉をもって生きている私たちと思いを同じくして下さっているように私には感じました。これは私たちにとって、言葉に表せない、とても大きな慰めではないでしょうか。

 ところで、この「空しい」という言葉は、前の口語訳では「空」と訳されていました。「空しい」に比べて「空」の方が広い意味になるので、様々なことを考えることができます。しかし「空」と言うと、私たちはどうしても仏教的な「色即是空、空即是色」とか「諸行無常」などという言葉と結びついてしまうからでしょうか、以前の口語訳では「空」としていたものを新共同訳では「空しい」と訳を改めたのだそうです。ただ今度また新しく出ました「協会訳」では「空」に戻っています。やはり「空しい」だけでは意味が狭すぎるのだと思います。

 聖書の「空」という言葉は、「空しい」の他、「空虚」、「無」、「無益」、「無意味」、「不条理」、あるいは「神秘」、「謎」、そして「儚い」あるいは「束の間」などと訳せるように、本当に意味内容は深くて広い言葉です。敢えて聖書の「空」について申し上げるなら「人生は儚く、束の間である」ということでしょうか。

 古代ギリシアの哲学者プラトンは「『驚き』は哲学の始まりである」と言いましたが、西田幾多郎は「哲学の動機は『驚き』ではなくして、深い人生の『悲哀』でなければならない」と言います。西田は貧しさのために学業に苦労をしたり、子どもたちを早くに亡くしたりと苦難の多い人でしたので、私たちの人生というのは、その「空しさ、儚さ」を知るところから、初めて本当に生きることが始まるのではないかというところが、コヘレトとに通じるように思います。

 ただこの「コヘレトの言葉」が「心に染みる」というのはとても真剣な時なので、困難の中で、この目に見える現実がここに記されているということでないと、「心に染みる」ということにはならないと思います。もちろん信仰とは「見えないものに目を注ぐ」(Ⅱコリ4:18)ことです。しかし「コヘレトの言葉」には、厭世的と思われるほど私たちの現実が述べられているのです。それは挙げれば切りがないほどで、むしろ容赦が無いほどに私たちの「現実」、その「空しさ」が記されているのです。時には共感を超えて不快に感じる場合さえもあるのではないでしょうか。しかし人生の悲しみや苦しみに直面している者にとっては、むしろ楽天的で積極的な言葉は心に受け入れにくいのです。

 ウォルト・ディズニーの言葉に「追い求める勇気があれば、すべての夢はかなう。」というのがあります。如何にもディズニーらしいメッセージです。しかしこのような言葉は、悲嘆の時からしばらく経って、立ち上がり始めるようになってからでないと、当事者には苦しいものではないかと思います。

これは「死生学」のアルフォンス・デーケン先生の「悲嘆のプロセス」に重なるものと思います。反対に「コヘレトの言葉」は、あまりにも現実的、この世的に過ぎて、私たちクリスチャンにとって重要な終末や御国の完成、神の国の到来ついて、更に言えば神さまを信じていないのではないかと疑われるほどです。しかしその「コヘレトの言葉」の中で、私たちがもっとも親しんでいる「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。苦しみの日々が来ないうちに」との御言葉に述べられているのは、苦しみの日々に、そして年老いて後に、その時に私たちの希望は創造主なる神さまだけなのだと、そのことを心に刻めという信仰の言葉に違いありません。

 実は私たちが苦難の中で陥りやすい誤りは、自分が生きているこの世はかりそめに過ぎず、早く終末が来て、神さまの御国が完成して欲しいと願ってしまうことです。コヘレトはそのような誤った信仰が蔓延している時代の中で、今生きている現実の日々をこそ大切に生きよと教えているのです。

 同じような誤りは、使徒パウロの「ローマの信徒への手紙」にも記されています。ローマ教会の中に「どうせ自分たちの罪は主イエスの十字架で赦されるのだから、その赦しの恵みがもっと豊かになるように罪の中に留まろう。」という者たちがいて、パウロが叱責の言葉を述べています。パウロは主イエスの十字架によって罪を赦された者は、イエス・キリストに結ばれて生きているのだから、もはや罪の中に留まるべきではないと教えています。

 コヘレトもこの世の空、私たちの空しさの現実を認めた上で、神さまが私たちの生きる日々に報いてくださるのだから、与えられた糧を喜んで受けて、この地上の日々を生きよと言うのです。

 先ほど「空」の様々な意味の中に、「儚さ」や「束の間」という訳をご紹介しました。この「儚さ」や「束の間」の存在というのは悪い意味だけではありません。「儚いからこそ美しく」、「束の間であるからこそ尊い」ということもあるのではないでしょうか。人生は儚く、束の間であるからこそ、私たちは意味ある生涯を送りたいと願うはずだからです。そのように思いが至りますと、私は主イエスの「山上の説教」には、この「コヘレトの言葉」があるように思われて来ます。「マタイによる福音書 6章27~30節」をお読みします。 

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、 言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っ てはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさ え、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらの ことではないか、信仰の薄い者たちよ。」
明日は炉に投げ込まれる儚い野の花であるからこそ、栄華を極めたソロモンよりも美しいと主イエスは言っておられるのではないでしょうか。そうすると、神さまが私たちの何を愛して下さっているのかも知ることができるように思います。神さまは「空」である私たちの「儚さ」、私たちが「束の間の存在」であることを何よりも深く愛し大切にしてくださるのです。

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。」

-祈り-
 天の父なる神さま。私たちは今、大きな災害の時を生きています。この時を共に生きる私たちの隣人が守られますように。またこの時にも、人生の
様々な苦難を負って過ごしている一人一人に、あなたの慰めがありますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。  アーメン

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