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礼拝説教

礼拝説教

説 教 「教会の誕生」    長山 道 協力牧師

 本日は、聖霊降臨日です。ペンテコステの出来事は、七週祭というユダヤ教の三大祭の一つが行われたときに起こりました。イスラエルの男子は皆エルサレム神殿でこの七週祭をお祝いしなければなりませんでしたので、そのときエルサレムには、あらゆる国からユダヤ人たちが帰って来ていました。

 イスラエル王国とユダ王国が滅亡して以来、ユダヤ人たちは世界のあちこちに散らされて長年生活していました。そして自分たちが生活している場所での文化になじんで、その土地の言葉で会話をしていました。ですから、もう旧約聖書の言葉であるヘブライ語を聞いてもわからなかったり、当時のエルサレム周辺で話されていて、主イエスも話されたというアラム語がわからなかったりという人がほとんどでした。使徒言行録2章にはたくさんの地名が列挙されています。

 パルティア、メディア、エラム、メソポタミアとユダヤ、これらは中近東の地名です。カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、これらは小アジア、つまり現在のトルコのアナトリア半島のあたりの地名です。そしてエジプト、リビアはアフリカの地名です。さらにローマはヨーロッパですし、クレタとアラビアは海と砂漠、西と東を表しています。つまり当時の全世界がここに書かれています。

 全世界の人たちが集まったら、お互いに言葉はわからないはずです。ところが、ガリラヤ出身の使徒たちが話している言葉が、そのとき皆わかったというのです。

 これと対照的に、旧約聖書創世記11章には、その頃世界中は同じ言葉を使って、同じように話していたと、そして東の方から移動してきた人々が「天まで届く塔のある町を建て有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と言ったと書かれています。

 実際にそのような碑文がネブカドレツァル2世という王のものとして残されていますから、事実性があるのでしょう。その碑文からわかるのは、塔建設のため、王の絶大な権力のもとに、各地の民族が平定され、搾取され、弾圧されていたということです。こうした人間の傲慢は、聖書の初めからくり返されてきたことだったと言えます。そして、この人間の傲慢がもたらした結果は惨憺たるものでした。全ての民が分裂し、前以上に敵対し、憎み合うようになり,「散らされないようにしよう」と考えていたにもかかわらず、散らされてしまったからです。

 人が互いに関わりを持たないかのように全地にばらばらにされてしまうということが、恐ろしいこと、悲劇的なこととして書かれています。わたくしたちも3月末以来、一つの場所に皆で共に集うことができない、互いに親しく語り合うことができないという経験をしています。それはコロナ禍と呼ばれているように、禍と感じられます。

 しかし全地に広がっていくということは、創造の初めには、神の祝福でもありました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」。地上のどんなところにあっても神の民がおり、そのようにして神の祝福が全地に満たされていくということは、本来神のみ旨でしたし、喜ばしいことでした。
 その喜びが本当に起こったのが、聖霊降臨の、教会の誕生という出来事でした。

 バベルの塔とは正反対に、当時の共通語であったギリシア語やラテン語ではなくて、皆「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞」いたのです。確かにペンテコステによって人々は一つとされました。しかしそれは、「神の偉大な業」によって一つとされたのであって、一人一人の置かれた環境や個性が抑圧されることによってではありませんでした。「神の偉大な業」は、あらゆる国や地域や、そして全ての人を包みます。

 その「神の偉大な業」とは、主イエス・キリストの十字架と復活です。主イエス・キリストが十字架での死をもって、罪の力に勝利し、わたくしたちの罪を赦し、神がわたくしたちを復活の主イエスに結び合せ、神との和解に入れてくださった、このことが神の偉大な業です。この業がわたくしたち一人一人を包み、また世界を包んでいます。わたくしたち一人一人が共にいます神に慰められ、立ち上がらせられ、またさらに世に証ししていく者とされます。

 3月の終わり、日本ではまだ緊急事態宣言が発令される前に、フェイスブックであるイタリアのお医者さんの書いた文章を読みました。その頃すでにイタリアは中国に次いでこのウイルスによる死者が多い国となっていました。この方は、新型コロナウイルスに感染した患者さんを治療する38歳の男性のお医者さんでした。「自分はもはや医師ではない。数百人の患者が病院に運ばれてきて、もう何日も家に帰っていないし、自分がいつ食事をしたのかも思い出せない。誰を治療して生かし、誰を死を迎えるために家に送り返すかを選別する人に過ぎなくなってしまった。同僚の医師にも感染者が複数出て、そのうち2名は亡くなってしまった。悪夢のようだ」とこの人は書いています。

 その病院に、75歳の神父が運ばれてきたそうです。その神父はすでに呼吸困難でしたが、聖書を持ってきて、瀕死の患者さんたちの手を取って聖書を読んであげていたのだそうです。それまでこの医師と、同僚の医師たちは皆無神論者で、自分の親が教会に行くのをバカにしていたけれども、人間にできることがなくなってしまったところで神が必要だと気づいて、神に平安を求めることを始めたのだそうです。

 皆が疲れ切って崩れ切っていたときに、この神父は自分も苦しんでいたにもかかわらず、平安をもたらしてくれたと書かれています。この病院に8日入院しただけで神父は亡くなったそうです。「自分もこのままでは死ぬだろう。それでも自分の最後の息が他の人たちを助けるために与えられるように願っている。自分は死とその痛みに囲まれながらも、神に立ち返ることができたことに、喜びで溢れている」。そのようにこの文章は閉じられていました。

 散らされるという禍の中で、わたくしたちもまた主にある平安と慰めと希望を伝えるために、祝福を持って遣わされ散らされているのだと思わされたことでした。

 わたくしたちは今、散らされた状態にありつつ、同時に集められた群れとして、時を同じくして祈りのときを持つ恵みに与っています。教会に集うことが叶わず、主日の朝を自宅で祈って過ごすとき、わたくしたちは実際に教会に集っていたときには思いもしなかったほど、教会を求め、御言葉を求め、交わりを求めている自分に気付かされたのではないでしょうか。外出自粛の単調な生活の中で、礼拝のときがかけがえのない喜びの時間であることを改めて教えられたのではないでしょうか。

 バベルの塔とペンテコステの出来事が示しているように、散らされることは禍としても祝福としても起こり得ます。また集まることは不従順としても恵みとしても起こり得ます。わたくしたちが散らされているときも、再び集められるときも、それが主によって祝福され、恵みとされるよう祈ります。

【祈り】

主イエス・キリストの父なる神さま
聖霊降臨の恵みに感謝をいたします。
わたくしたちの教会を慰め、繰り返し新しく生れさせてくださいますように。
不安と絶望のうちにある人々に、あなたの希望が届けられますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン

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