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礼拝説教

礼拝説教

 説教 「恵みの中を歩む人生」  長山 信夫牧師
          
 ローマの信徒への手紙6章1‐11節

 新型コロナウイルス禍の中を歩んで1年半が過ぎました。早い収束を願う祈りがなかなか適えられない状況で、神様の御旨はどこにあるのか、救いのご計画はどのようにすすめられるのか、いつの間にか思いが神へと導かれていく自分に気付かされました。

 昨年のはじめは得体のしれない新型コロナウイルスの恐怖の中にいました。礼拝のない日曜日、休園中の幼稚園、静かな庭を歩きながら、例年と変わらない草花の成長、訪れる小鳥や蝶に、天地の創り主なる神の現臨を思いました。わたしたちの罪を担って十字架に死なれた神の子キリストの間近には、土の塵で人を形作り、命の息を吹き入れられた天地創造の父なる神がおられるのです。保育を再開した時、親の愛を豊かに受け、成長した明るい園児たちを迎えることができたのは感動でした。

 人生に苦しみは避けられません。わたしたちは無力感や罪責感に閉じ込められがちですが、そのような時、神へと開かれた祈りの窓を与えられているのは大きな恵みです。

 伝道者パウロはいつも危険と戦いの中におりました。律法の行いの正しさによってではなく、ただキリストを信じる信仰によって誰でも罪から救われるとの福音の力強い宣教は、多くの人々に救いをもたらしましたが、敵対者たちの攻撃も激しさを増したのです。パウロは律法を否定していると考えたのでしょう。律法はモーセを通して神が与えてくださった尊い掟です。福音が無律法主義を助長するのであれば「信仰義認」の教えは批判されて当然でしょう。

 律法学者は、律法できるだけ単純化して民衆を導きました。600を超える複雑な律法です。最も重要な一つを学ぶことによって律法に従うことが可能となるのです。マタイによる福音書22章の律法の専門家とイエスとの問答もこのことを巡ってでありました。
律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(35-40節)律法の中心は愛であることが明確に示されています。

キリストの十字架の贖いに神の愛は示されています。キリストによって神の愛が何であるかを知り、神の愛を知ることによってわたしたちは隣人を自分のように愛することができるのです。
信仰義認と律法順守とは矛盾しません。

「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」(1節)。これはパウロの宣教に対する批判の言葉です。そんなことはあり得ないと強く否定します。根拠は洗礼です。教会が執行している洗礼は、バプテスマのヨハネの行った悔い改めの洗礼ではありません。罪の赦しと神の国と永遠の命をもたらすイエス・キリストの洗礼です。

罪の赦しは死によってわたしたちの現実となっています。第一に、キリストはわたしたちの死を死んでくださったのであって、わたしたちは洗礼によってキリストと共に死んだのです。死者は罪の支配から解放されています。罪の中に留まることはそもそもできないのです。第二にキリストの死は罪を贖うための死であって、父なる神はわたしたちの罪をすでに赦し、わたしたちは義人として神と共に生きる者とされ、神の国に迎えられているのです。第三に永遠の命です。洗礼によってキリストと共に死んだのは、キリストと共に生きるためなのです。

 パウロは語ります。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(3,4節)。

洗礼式の勧告の言葉は重要です。「主イエス・キリストはその御名によって洗礼を受ける者の罪を赦し、神の国ととこしえのいのちとを与えることを約束なさいました。あなた(がた)はこの約束を信じて洗礼を受けるのであります。……」
バプテスマのヨハネの行ったのは悔い改めのバプテスマです。ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と叱責しました。受洗者に悔い改めにふさわしい行動を求めます。

 主イエスの洗礼は、聖霊による洗礼で受洗者に命をもたらす圧倒的に尊い恵みの洗礼なのです。
洗礼を受けた教会員がいつの間にか離れてしまうことをわたしたちは知っています。受洗の時の決意を忘れてしまったのだろうかと胸を痛めます。しかし、主イエスの洗礼は主イエス・キリストの受洗者への約束に基づく洗礼なのですから、主イエスは約束を必ず果たしてくださいます。

 新型コロナウイルス感染症で始まった新しい教会の形があります。どこにいても共に礼拝を守ることができるのです。教会ホームページや郵送された印刷物によって、聖書、説教、祈りを共にすることができます。礼拝を守った方々からメールやお便り、また献金も届いています。忙しくて、あるいは高齢で、病で、様々な理由で集まれなかった人々の多くがコロナ禍の中にあって礼拝を共にすることができているのです。主イエスは受洗の時の約束を実行してくださっています。わたしたちもこの恵みに応えて励みたいと思います。

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と5節にあります。「あやかる」というのは「幸福な人と同じ状態になる」という意味だとの説明があります。最新の訳(聖書協会共同訳)によると「同じ状態」となっています。キリストの死の姿と同じ状態とは、「十字架を負う」ということになります。V.フランクルの「運命を十字架として負う」という言葉があります。イザヤ書の主の僕の姿を彷彿させます。そのとき、父なる神が共にいてわたしたちを支えてくださるに違いありません。「その復活の姿にもあやかれるでしょう」は「復活の主と同じ状態」ということになり、栄光に包まれた永遠の命を生きるということになります。

 畏れ多く、もったいないほどのわたしたちの姿です。キリストの体に結ばれているのですから、自分自身のみすぼらしさにもかかわらず、主イエス・キリストが果たしてくださる約束の実現として、信じて恵みに与からせていただこうではありませんか。

祈祷:
天の父なる神様。御子を賜うほどの御愛を感謝いたします。約束の相手としてわたしたちを御前に招いてくださり、洗礼の恵みに与からせてくださいました。父・子・聖霊の三位一体の交わりに加えられている者にふさわしく在らせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
             アーメン

     sssアジサイの花

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