礼拝説教
礼拝説教
説教「行う人に」 長山 信夫牧師
ヤコブの手紙1章22-27節
「行う人に」が今日の説教題です。22節に「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 」とあります。御言葉を信じていながら、御言葉が行為に結びついていない。それは「自分を欺いて」いるのだとのヤコブの手紙の鋭い指摘はそのとおりだと思います。
最初に赴任した宇佐美教会での経験ですが、役員をしてくださっていた兄弟からこういう言葉を受けました。「今日よりも明日、明日よりも明後日と、階段を一段一段、少しずつでいいから上がっていければいいのだけれど、自分は下っているように感じる」。この悲痛な言葉にわたしはどう応えたらよいかわかりませんでした。
「御言葉を行う人に」はすべてのキリスト者の願いであり、祈りです。しかし、それとはかけ離れた姿を自分に見出して打ちのめされる人は少なくないのではないでしょうか。わたしはその一人です。今日の御言葉に答えを見出すことができればと願います。
ヤコブの手紙の宛先は「離散している十二部族の人たち」(1章1節)です。離散しているディアスポラの神の民全体を示す表現です。エルサレムから各地に散らされている人々、新約聖書では神の民はキリスト者、十二部族はその全員です。エルサレムにはイエスの弟で、主イエスの昇天後エルサレム教会の柱となった全教会の指導者ヤコブがいます。そのヤコブから当時の教会全体に当てた手紙、それがヤコブの手紙です。
当時、世界の支配者はローマでした。ユダヤ人たちは各地に移民として生活の基盤をなんとか整えることができた時代です。その小さなユダヤ人社会からも除け者にされていたキリスト者たちはそれでも信仰を失うことなく教会を形成し、信仰生活を維持していたのです。大したものだと思います。26節の「自分は信心深い者」は、外見が模範的信仰者に見えるだけでなく自分でもそう思っていたようです。しかし、ヤコブは警告しています。「御言葉を行う人に」なりなさいと。
ヤコブの手紙に指摘されている問題は2つです。一つは「舌を制することができず」(26節)、もう一つは困っている人々に手を差し伸べない姿です。「みなしごや、やもめ」と具体例があげられています。移民にとって家族を失うことは致命的だったに違いありません。
ルカによる福音書10章25節以下にこうあります。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。そしてよきサマリア人の話をされました。
初代教会の人々もわたしたちも、繰り返しこの戒めを礼拝で聞いています。しかし、共に礼拝をささげる教会の兄弟姉妹の中に具体的に困窮者がいるのに、見て見ぬふりをしているとしたら、愛の戒めを聞いていないのとかわりなく、「自分を欺いて」いると言われてもしかたがありません。むしろ、信仰者だけに事態はより深刻になります。
「舌を制する」(26節)とはわたしたちが語る言葉の問題です。具体的には怒りの言葉で、相手にぶつけてはいけないのに我慢できなくなってしまうのです。
1章19-20節にこうあります。
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 人の怒りは神の義を実現しないからです」。
4章1-3節にもこうあります。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。
ヤコブの手紙は教会の問題を具体的に指摘し、警告を発するだけでは終わっていません。わたしたちの弱さ、課題を熟知し、指摘した上で、このように励まします。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)。
礼拝でわたしたちが聞いている言葉は神の言葉だということが重要です。神の言葉は語られるだけでは終わらないからです。神の言葉は必ず実現するのです。
「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」(1章16-18節)。
天地創造は神が発せられた言葉によって実現しました。「光あれ。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた」(創世記1章)とあるとおりです。
「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」(21節)とヤコブは語ります。
「心に植え付けられた御言葉」、なんという力強い言葉でしょう。御言葉を行う人になるためには御言葉を「聞く」ことが何より大切です。御言葉は信じて受け入れるわたしたちの心に植え付けられ、根を張り、成長し、やがて結実します。そのためには雑草を取り除く忍耐と根気が重要です。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(19節)。「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り」(21節)なさいとヤコブは勧めます。わたしたちのうちに蔓延る雑草を取り除くのです。そしてやがて実を結ぶのです。
ヤコブの手紙は「藁の書簡」と呼ばれ軽んじられてきました。信仰よりも行いが重んじられていると受け止められてきたからです。しかし、改めて読み返すと、礼拝の大切さ、信じて聞くことの大切さを強調していることがわかります。
祈り
天地の造り主である父なる神様
信じる心に命の言葉を植え付けてくださる十字架と復活の主の御業に感謝します。教会が神の恵みを豊かにやどす畑となることができますように。
主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン
ー礼拝スケジュールへー