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礼拝説教

1月4日礼拝説教

説教「弟子たちを召す主イエス」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
 
  マタイによる福音書4章18-22節

 キリスト者はみな主イエス・キリストの弟子にされた者たちです。どういうふうに弟子にされたのでしょうか。一年のはじめの主の日の礼拝にキリスト者としての生活の初めにあることに想いを向けたいと思います。

 お読みいただいた聖書の箇所は、主イエスがペトロとアンデレ、それにゼベダイの子ヨハネとヤコブを弟子としてはじめてお召しになったときのことを記しています。ガリラヤの湖で漁業をなりわいとしていた4人の漁師を主イエスは、御自分の弟子になさいました。一番最初の主の弟子たちのことを記すこの個所は、ただ4人の弟子たちのことだけを記しているのではないと思われます。そうでなく、この後に続いた多くの弟子たちも含めて、どの弟子たちにも当てはまる主イエスの召しのことが、記されているのではないでしょうか。

 主イエスの召しを理解するには、第一に、主イエスが人々を御自分の弟子としてお召しになったその文脈、前後関係を知ることも重要です。この箇所の直前には、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」とあります。つまり主イエス御自身の神の国の福音伝道がまずあって、その関連で主は、弟子たちをお召しになりました。福音の内容は、神の国がごく近くまで来ているということです。地上の国のことではありません。唯一の真の神が真に神としてわたしたちと共にいて下さり、恵みの御支配をもって平和に統治してくださる「神の国」(バシレイア・テウー)です。神の憐みと慈しみがあり、その神の愛と力によって、神の義と平和に包まれた御国です。主イエスはその神の国がごく身近に来ていて、もうすでにその力を発揮していることを告知なさいました。

 この神の国との繋がりで、主は人々を呼び寄せ、弟子となさり、神の国に属する「神の民」としてくださったわけです。ですから、主の弟子とされ、キリスト者とされた人は、神の国を本国にしむ。「神の国の民」とされ、神を父とする「神の子」とされます。そうすると、今日のように「アメリカ・ファースト」とか「日本が第一」とは言わないのではないでしょうか。そうでなく、「わたしたちの本国は天に在る」と言い、神の国が第一です。地上の自国ファーストを言い出したら、それぞれの国同士の争いは避けられないでしょう。キリスト者は、その中でただひとりの神、唯一の神の御支配による、まことの義と平和の国があると信じます。

 神の国が近づいたと告げた主イエスは、神の民を召しました。そのために、ペトロとアンデレを見い出し、わたしたちも見い出されたのです。ヤコブとヨハネも船の中で働いているのをご覧になり、彼らをお呼びになりました。「呼んだ」、つまり「コール」したわけで、それが神の「召し」、「召命」です。神の国のために、その民とする人を主イエスはお呼びになります。今日もお呼びになっています。わたしたちも主イエスに呼ばれ、召されて、神の国の民とされるために主の弟子とされました。

 あの4人の弟子たちと同じように、わたしたちも、主イエス御自身が、わたしたちを見て、呼び、召してくださっています。そうすると、重大なのは、その呼んでくださる言葉です。主イエスはこう言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。今日もこう言われているのを聞かなければならないでしょう。「わたしについて来なさい」。これを原文通りに言いますと、「来なさい。わたしの後に」です。「来なさい」と呼んでくださっています。それはそうされる資格がわたしたちにあるからではありません。誰も何か取柄があっての話しではないのです。「召された」のは誰も何の取柄もないけれども、にもかかわらず呼ばれたのです。真相を言えばだれもがぎゃくに欠けの多い者たちです。しかし「来なさい。わたしの後へ」と呼ばれました。

 つまり、ここで「来なさい」には何の条件もないのです。それはむしろ赦しの言葉です。そして御許に呼ぶ恵みの言葉です。主はわたしたちを受け容れてくださっています。それで「来なさい。わたしの後に」と言われます。
「わたしの後に」とおっしゃるのは、わたしたちに対する信頼の表現でもあり、同時に主御自身がわたしたちの前に立ちはだかってくださる守りの言葉ではないでしょうか。主の後にということは、主イエスを模範にして従っていけるという意味もあるでしょう。しかしもっと根本には主が信頼をよせてくださり、また御自身の守りの中を進ませてくださる主の憐みの言葉でもあると言ってよいでしょう。主の召しは、わたしたちに対する主の赦しであり、信頼の表現であり、守りの中においてくださる主の愛の表現です。それによってわたしたちを御国の民、神の子とし、救いの中に入れてくださいます。

 そして主イエスの召しには約束が伴っています。「あなたを人間を獲る漁師にしよう」。どういうことでしょうか。人をとるとうのは、その人も主キリストの召しを受け、神の国の民とされ、神の子されて、救いにいれられることでしょう。わたしたちが主の召しを受けたのは、さらの主の召しが他の人にも及ぶように用いられるためと言うことです。他の人々のために祈り、できれば他の人のためにこころを配り、その人が主の召しに気付くように、証しするということでしょう。

 人を取る漁師にされるのは、主イエスから離れて先に行くことではありません。主の後から歩んで神の国の福音を伝える主に用いられる者になることです。神の国の民を集めるのは、主イエスが召すことによります。そのために仕えて、神の国の到来のために用いられる人々、それはまさしく教会の人々でしょう。わたしたちは一人だけで召されたわけではありません。召された人々は群の中に共に召されています。それは最初の弟子のときからそうだったのです。
主から呼ばれ、召された者はどう対応するでしょうか。ペトロとアンデレは「すぐに網をすてて従った」とあり、ヤコブとヨハネも「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。どちらにしても「すぐに」従いました。「すぐに」という中に、主イエスの召しが権威を持った召しであり、またその召しの重大さが現われています。さらには主の召しを受けたことの素晴らしさ、喜ばしさも示されています。召命は天の喜びの中でなされます。

 わたしたちには人生が分からなくなるときがあるかもしれません。生きる意味や生き甲斐が分からなくなる時もあるでしょう。しかしどんな時にも、主イエスからの召しを受けていることを思い起こすことができます。今日も、復活の活けるキリストがわたしたちに目を留め、「来なさい。わたしの後に」と呼んでくださっています。そして神の国の中に、神の国のために生きる人生を主イエスの守りの中で歩むことができます。

 「舟と父親を残して従った」とあります。キリスト教信仰に生きるためには親も職業も捨てろというのではありません。ただ活ける主イエス・キリストの後から歩み、真の神を神として、神の国を第一にして生きることです。それは、職業第一主義でも、経済第一主義でもないことは明らかです。家族第一主義でもありません。どこに命をかけ、何のために生き、また何のために死ぬのかと問われれば、真の神が第一、そしてその神の御支配、つまり神の国が第一です。そのために召され、主イエスの後についていきます。そして人をとる漁師として、つまり主イエスの業のために用いられていきます。そしてその中で家族も、職業も、あるいは地上の国家に生きることも、新しい意味を見い出されるのではないでしょうか。

天の父よ、新しい年の歩みを与えられ、この年も主イエス・キリストの召しの声を聞き、主の御許に行き、主の御あとに従うことができますことを感謝します。どうぞ神の国の福音を世に伝える主イエス・キリストの御業に、わたしたちも用いられ、主が仕えてくださっているように、わたしたちも主にお仕えして、御栄のために用いられ、主の恵みを証し、主の召しが世に行き渡りますように祈ります。安藤記念教会に連なるすべての兄弟姉妹がこの年を主の救いを証しするよき年となりますよう、教会の頭である主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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