礼拝説教
7月7日礼拝説教
説教「苦しみを受けるのも恵み」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ペトロの手紙Ⅰ 2章18~21節
人間は「苦しみ」それも「不当な苦しみ」を受けるときがあるものです。今日のウクライナの人々やガザ地区の人々、あるいは自然災害によって日常生活を奪われた方々もみな、「不当な苦しみを受けている」と感じているのではないでしょうか。災害や戦争だけでなく、私たち一人一人の人生でも「不当な苦しみを受けている」と思うときがあるものです。そのとき、どう生きることができるでしょう。何か暗いテーマについて話しているように思われるかもしれませんが、実はそうではありません。今朝の聖書の箇所は、まさしくこの問題を真っ向から受け取って、希望にあふれるキリスト教信仰の真髄を語るからです。
手紙の著者は「召し使いたち」に呼びかけています。召し使いとはつまり奴隷です。当時の奴隷には、「無慈悲な主人たちに」仕えている奴隷が多くいました。その人々に向かって、その無慈悲な主人に従いなさいとペトロは語ります。
ここに「心から畏れて」「主人に従いなさい」とありますが、「心から畏れて」というのは、主人を畏れてと言っているように受け取れますが、そうではありません。この直前の17節に「神を畏れ」とあるように、畏れるべきはただ神のみです。ですから神を畏れ、神を仰ぐ礼拝に生きてということです。「不当な苦しみ」を受けるにしても、神を畏れ、神の御意志を知って、無慈悲な主人たちにも従いなさいと言うのです。
今朝の御言葉は、当時の奴隷だけに語られているわけではありません。人間は誰もがみな、なんらかの意味で不当と思われる「苦しみ」を受けるものです。ここではそれを無慈悲な主人のもとで苦しむ奴隷に典型的な場合を見ながら、すべてのキリスト者に語りかけています。
苦しみは、もし変えられるものなら、変える勇気を与られて、変えて行きたいものです。不当な苦しみであればなおさらです。しかし簡単に変えられない場合があります。なかには決して変えられない苦しみもあるのではないでしょうか。罪を犯したための当然の報いと思う人がいるかもしれません。しかしペトロはそういう意味で語ってはいません。罪の報いではなく、罪を赦されて生きる人生の中で、なお受け取らなければ苦しみを語っています。召し使い、つまり奴隷に託しながら、誰しもが抱えているこの人生の問題を語って、それに信仰の答えを告げています。
その語り方には実に驚くべきものがあります。と言いますのは、神の御意志を知り、神を畏れて、不当な苦痛を耐えるなら、「それこそ恵みなのです」と語ります。「それは御心に適うことなのです」と訳されています。この訳は本文通りとは言えません。本文には「恵み」とあります。「これこそ神の恵みです」と書いてあります。不当な苦しみを受けて耐える、それが「神の恵み」と言うのです。それも19節と20節、二度にわたって繰り返し、はっきりと「これは実に恵み」「これは神による恵み」と書かれています。ここにペトロの手紙が告げている信仰の特徴を知ることができます。神の御意志と信じて不当な苦しみを受け、そして耐える、それは神の恵みなのであり、そこに神の恵みがある。「素晴らしいこと」があると訳した聖書もあります。「その中へとあなたがたは召された」とあります。つまり苦しみを受けて耐えることは神の恵みであって、そのために私たちは召されていると言うのです。
なぜ、そうなのでしょうか。「苦しみ」を受けないことでなくて、「苦しみを受け、そして耐える」、それが恵みであり、素晴らしいことなのでしょうか。
その理由がはっきりと記されています。それは、その「苦しみ」は主イエス・キリストが私たちのために受けて苦しまれた苦しみに通じている、ただ通じているだけでなく、同じ苦しみと言ってもよい。私たちが受ける苦しみは、主イエス・キリストがすでにそれを受けて歩み、その歩みの跡を残されていると言うのです。「主の足跡」があるということは、私たちが苦しむ苦しみは、たとえ不当な苦しみであってもすでに主イエスが苦しまれたものだということです。ですから、苦しみを受けることは、その中にある主イエスの歩みの跡に自分の足を重ねるようにして歩み、そしてその足跡に続いていくことができる。そのために主は「模範」を残されたと語られています。主の生涯と十字架の苦しみはそのためだたのです。
本文ではここに「私たちのために」と二度繰り返されています。主キリストが、「私たちのため」に苦しまれた。主のお苦しみはわたしたちのためだった。そしてそれだけでなく「私たちのために」「模範」を残された。主が「模範」を残されたには、私たしたちが主の足跡に続くためだったと言うのです。
そうであれば、「苦しみを受けること」は、無駄なことではなく、主のものとされた者には、そこに神の恵みがあると言われることは分かるのではないでしょうか。主イエス・キリストが苦難受けとめ、私たちのために足跡をのこされている。その足跡を踏めることは、主イエス・キリストと深く結びついて生きることです。だからそれは「恵み」だと言われます。当然のことでしょう。苦しみを受けるとき、主の足跡に続くようにとの「召し」を受けることで、すでに主は私たちのために模範を残されている。これは神の恵みです。そしてもう一つ、「主の足跡に続く」ということは、苦しみの中で終ってはいません。主は私たちのために苦しまれましたが、それに打ち勝ってくださいました。苦難と死と、そして悪魔的なものにも打ち勝たれ、栄光のキリストとして天に昇られました。「主の足跡に続く」ことは、苦しみで終わりません。復活と栄光の主イエスについていくことで、希望のあることです。栄光の主の希望の道を行くことであって、それはまさしく神の恵みです。
あるひとは苦しみからは逃げない方がよい、逃げれば逃げるほどその苦しみは恐ろしくなる。だからむしろ苦しみには立ち向かっていったほうがよいと言います。しかし一体誰が苦しみに立ち向かっていけるでしょうか。すでに主イエスが私たちのためにそれを受けて耐え、それに打ち勝たれて御足の跡を私たちのために残してくださり、そこにあなたの足を重ねよと招いてくださっています。この主の恵みなしに、つまり主のものとされて、主に従って行くのでなければ、とても不当な苦しみを受けて耐えることはできないでしょう。主の足跡に続くことは、主のものとされて、主の死と主の命に結ばれることです。それは恵みであり、その恵みへの召しは、救いへの召しです。
「不当な苦しみを受ける」という人生問題をめぐって、思い起こされる祈りがあります。ラインホールド・ニーバ―の「平静さを求める祈り」(Serenity-prayer)と言われる祈りです。ラインホールド・ニーバーという人は、20世紀のアメリカの代表的な神学者ですが、彼の「平静さを求める祈り」は、ひと頃日本の教会でもよく知られました。「神よ、変えることのできるものには変える勇気を、変えることのできないものにはそれを受け容れる平静さを、そして変えることのできるものと変えることのできないものとを識別する知恵を与えてください」という祈りです。「変えることのできないもの」の中には、「不当と思われる苦しみ」もあるのではないでしょうか。「不当な苦しみを受ける」ことは、変えることができないものとして、それを受け容れる「平静さ」を必要としているでしょう。信仰による平静さは、全能にして憐みの神、主イエスの父である恵みの神に信頼してこそ与えられるものです。しかしどんな苦しみにもすでにそこに主イエス・キリストの足跡がついていて、勝利の主、復活の主イエス・キリストが共にいてくださいます。共にいます主を信じて、平静にそれを受けとめることができるでしょう。キリスト信仰者の平静さは、主イエスの愛とその御力をしっかりと信じる確かな信仰と共にあります。主イエスの御跡に従っていくことが、「平静な心」を与えてくれるでしょう。それだけでなく、希望も与えてくださいます。主キリストの御跡についていくことに神を信頼する平静さと希望がないはずはありません。
憐れみに富みたもう天の父なる神様、「ここに恵みがある」との御言葉を聞くことができ、感謝します。私たちまことに不信仰な者で、主が私たちのために残して下さった足跡を見ず、主の模範に従うことをしないことがしばしばです。そのために平静さも希望も失いがちです。神よどうか、私たちの不信仰を赦し、御霊を注いで信仰を確かなものにして下さい。今日も共にいてくださる復活の主イエス・キリストを愛し、主の御跡に従っていくことができますように。すべての教会の兄弟姉妹のために祈ります。また世界のさまざまな地域で不当な苦しみを受けている人々のためにも祈ります。主イエス・キリストが私たちのために残された模範を教会が力強く証しすることができますように。私たちのために十字架を負われた主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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