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礼拝説教

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 説教 「福音に共にあずかる者となるため」長山 信夫牧師

   コリントの信徒への手紙一9章19-27節

 ギリシア社会は自由人と奴隷によって成り立っていたそうです。自由人の様子は、使徒言行録17章21節に「何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていた」と書かれています。「ギリシア人は知恵を探します」(コリントの信徒への手紙一1章22節)とパウロは言っており、何よりも知識を重んじていたようです。働かないでどうして生活が成り立ったのか?それは奴隷がいたからです。コリントの信徒への手紙一12章には一つの体と多くの肢体のたとえで教会の在り方が説明されています。これはギリシアの貴族が使用人の不満を抑えるために用いられていた理屈を援用しているとのことです。体のたとえは「わたしたちは腹、あなたがたは手足、わたしたちの飲食によってあなたがたは働くことができるのだ」というわけです。

 奴隷は自分たちの奴隷であることを諦めによって受け入れていたのではないでしょうか。教育のないこと、難民であり寄留の民であること、戦争で敗れ捕虜となったこと等々が考えられます。それにしてもお前たちは「足の着いた道具だ」などと言われたときは悔しさに震えたに違いありません。

 自由人は自分がなぜ自由であるかの根拠を知ることは難しかったのではないでしょうか。境遇を誇りとし、満足していたからです。
しかし、自由人と奴隷によって成り立っている社会に解決しなければならない対立があることは明白です。

 今日の御言葉冒頭の「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」には当時のこのような背景があることを覚えておきたいと思います。
 
 パウロが自分を「自由な者」と認識しているのにははっきりした根拠がありました。イエス・キリストによって罪の支配から解放されているという信仰です。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)とパウロは言っています。

 パウロの自由は、神の愛によって与えられた恵みによるのです。ここから、神の愛に応えて神の愛に生きる者となるという志が生じます。もう一度冒頭の言葉を読みましょう。
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」神の愛がもたらす人間の変化は、多くの対立を克服します。

 人は誰でも享受している自由の根拠を深く知る必要があります。ギリシヤ人だけでなく、わたしたちも同様です。
衆議院選挙が始まりました。争点の一つは夫婦別姓の是非です。家族制度の問題が背景にあります。夫と妻、親と子、エフェソの信徒への手紙ではこれに主人と僕が加わります。妻に、子に、僕に、従順が求められています。夫、親、主人には愛です。神の愛は自己犠牲の愛、夫婦の愛は「助け手」としての愛です(創世記2章18節)。助け手としての愛、自己犠牲の愛が、対立の解決をもたらすのです(同24節)。根本的解決の筋道を聖書に学ばなければなりません。
 
 外務省はホームページで普遍的価値観に基づく外交を提唱しています。普遍的価値とは、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済と定義しています。普遍的価値のトップに「自由」が掲げられています。全体主義国家が台頭し、専制政治が横行する中、普遍的価値を掲げるのは大切ですが、それを実現する力はどこにあるのかが課題です。それは神の愛、キリストの十字架です。

 キリスト教国である欧米の教会は教勢の衰退が伝えられています。一方アフリカではキリスト教は目覚ましい伸展を遂げているとのことです。
 日本ではどうでしょうか。普遍的価値を掲げて世界をリードする外交を展開するのであれば、日本の政治家は、もっと聖書を真剣に読み、学ぶべきです。

 三度冒頭の言葉を読みましょう。
 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」キリスト者パウロの在り方を自分のあるべき姿としてとらえなおす必要があるのは、洋の東西を問わないと思います。
 「すべての人の奴隷」になるとは、神から自由を与えられたパウロの信仰による応答です。「律法に支配されている人に対しては……律法に支配されている人のようになりました。……律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。……すべての人に対してすべてのものになりました」とパウロは語りますが、具体的にはどうしたのでしょうか。鍵になるのは「キリストの律法に従っている」(21節)です。キリストの律法で思い起こされるのは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」」(ヨハネによる福音書13章34節)です。キリスト者医師中村哲さんのことを思います。灌漑設備を主導し、アフガニスタンに緑豊かな地をもたらしました。内戦収束の目標に向かっての遠大な計画とそこへと向かう奉仕のさなかの殉教でした。

 パウロの二つの目標が掲げられています。一つは、「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(22節)。神が御子を遣わしてくださったすべての人の救いの計画に、たとえ少人数であったとしても自分も奉仕に加わることです。もう一つは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるため」(23節)です。神の愛の恵みの中に多くの人を招くこと、自分も同じ神の愛の恵みの中に入れられることです。
 
 この二つの目標に向かって邁進する自分を、パウロは競技場で走るアスリートになぞらえます。拳闘選手になぞらえて自らを打ちたたくのだとも言っています。目標に向かって進む者がだれでもしている節制であり、努力なのだと、パウロはわたしたちをもその戦列に加わるよう招いているのではないでしょうか。「賞を受けるのは一人だけです」は、一人一人が「賞を受けるよう走りなさい」ということで、神はその一人ひとりを深い愛をもって迎えてくださるのです。朽ちない冠を得なさい、救われなさいという励ましの言葉です。
 
 コロナ禍の中多くの人が助けを求めています。孤独に不安を覚えている人も少なくありません。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(23節)のパウロの言葉にわたしたちも続こうではありませんか。
 
祈り
父なる神さま あなたの大きな、力強い愛を感謝します。すべての人を罪から解放し、自由をもたらしてくださるキリストの十字架の恵みと復活の力に共にあずかることができますように。
救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 
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