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礼拝説教

礼拝説教

説教「ペトロか、イエスか」 田村 敏紀神学生 

   マルコによる福音書8章27-38節

〔1〕
 主イエスは、その第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ、悪霊に取りつかれた人や、病気の人、障がいのある人々を癒され、数々の奇跡を行なって来ました。皮膚病の人、中風の人、手の萎えた人、出血の止まらない人を癒して、人々を驚かせました。一度死んだ娘を生きかえらせたりもしました。五千人あるいは、四千人に食べ物を与えたり、湖の上を歩いたりする奇跡も行いました。

 主イエスから声を掛けられ、その弟子となった12人たちも、華々しい主の活躍に鼻高々だったかもしれません。弟子たちの前途には、主イエスによるさらなる癒しと奇跡が繰り広げられるであろうという、期待と自信が広がっていたことでしょう。主イエスとの師弟関係も良好で、弟子たち相互の関係も楽しいものだったに違いありません。

そんなときに、弟子たちと歩きながら主イエスは、「人々は私のことを何者だと言っているか」と弟子たちに質問されました。弟子たちは、人々は主イエスのことを「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「預言者だ」と言っておりますと口々に答えました。
すると主イエスが突然立ち止まって、「では、あなたがたは、私を何者だと思うのか」と質問してきました。この時の主イエスの顔は少し厳しいお顔だったろうと思われます。「あなたがたは」と強く言われたからです。人々が何と言おうとよろしい、私の弟子である「あなたがたは」、いったい私をどう見ているのかと質問して来たのです。ずっと寝起きを共にしていた主イエスから、今改めて「あなたがたは、私をどう見ているのか」と問われた弟子たちは、驚きと戸惑いを感じたでしょう。少しの沈黙の後、兄弟子ペトロが答えます。「あなたこそキリストです」と。主イエスは小さく頷き、ご自分のこのことに関しては誰にも話さないようにと戒めました。兄弟子ペトロの面目躍如といったところです。ペトロ以外の弟子たちも、主イエスはユダヤの国の救い主キリストであると再認識したのでした。

〔2〕
 ペトロにとって主イエスは、自分たちユダヤ人の救い主であったのです。主イエスは、今はなきイスラエル王国を再び建設してくれるユダヤ人の王様だったのです。ペトロを初めとする弟子たちにとってキリストとは、イスラエル王国を再興し、ダビデ王国、ソロモン王国のような理想国家を建設してくれるユダヤ人の王だったのです。

バビロン捕囚の70年間、ユダヤの人々は安息日には川のほとりに集まり、エルサレムに向って礼拝を捧げ、キリストの到来を祈り、願って来たのです。それから約500年経った今、ようやくユダヤ民族の救世主・キリストの出現を目の当たりにし、これからイスラエル王国の再建に、主イエスと共に取り掛かろうとしておりました。500年間耐え忍び、夢見た自分たちの国家が、主イエスを中心に自分たちの手で再建されようとしていたのです。その意味では、ペトロは勿論、弟子たち全員が素晴らしい愛国者でした。このカナンの地に、ダビデ、ソロモンに次ぐユダヤ人国家、イエス王国の建設を夢見たのです。弟子たちも、群衆も、皆、国家再興の願いを、熱い思いでもって主イエスに託したのです。これがペトロの立場です。

〔3〕
しかし主イエスは、ペトロのその願いを破壊しました。「私は必ず苦しみを受け、殺され、復活することになっている」と弟子たちに言ったのです。「必ず、そうなることになっている」という言い方は、人間を超えた方のご計画を示します。しかもそのことを公然と、あからさまに言ったのです。先ほどはペトロに「誰にも話さないように」と言っていたことと逆になります。ご自分の苦難と死と復活を、皆に聞こえるようにはっきりとおっしゃったのです。つまり、キリストである私はこれから苦しみを受け、殺され、復活するのだと公言したのです。

 弟子たちにとってこれは驚き以外の何ものでもありません。ペトロが「あなたこそキリストです」と断言したその瞬間、当人が即座に「私は殺される」と言ったのです。弟子たちにとっては、数々の癒しや奇跡を行なって来た、力と権威に満ちたお方がキリストとしてこれから大きく活躍しようとするこの時に、その本人の口から「私は殺される」という言葉が出るとは思いもよりませんでした。国家再興の指揮官・キリストであるならば、それは言ってはならない言葉でした。戦いに勝利し、王国の再興に向って行くはずのキリスト自身が、戦う前から敗北宣言をしてどうするのだという思いが弟子たちに当然湧いてきます。

〔4〕
 兄弟子ペトロが動きます。主イエスの袖を引っ張り、脇に「連れて行き」、「いさめ」ます。他の弟子たちからすると、ペトロの動きは当然のことです。ペトロに主イエスを強く指導してもらわなくてはなりません。「あなたはイスラエル国家の王になる方ですよ。今からそんな弱音を吐いてどうするのですか」と。

「連れて行く」という動きや、「いさめる」という言葉から、ペトロのほうが主イエスより立場として上に立っているのが分かります。上司のペトロが部下のイエスを叱責するために、人の余りいない場所に連れて行ってから個人的にお小言を言っている感じです。
しかし主イエスはペトロにきっぱり言います。「サタン、引き下がれ」と一喝します。ペトロを「サタン」と断言し、完全に拒絶します。そして「引き下がれ」と命令したのです。主イエスがこれだけ決然と言い放った場面はほかにはありません。いかに強い口調であったか、うかがい知ることができます。

 私たちはこの言い方に、主イエスの宣教開始直後の悪魔の誘惑を思い出すのではないでしょうか。悪魔はこの世のすべての国々を主イエスに見せて、「これをみんな与えよう」と言ったのです。それは、この世におけるイスラエル王国の再興と同じことです。世界にイスラエル王国を建設し、それを全て主イエスに与えようと言うのと同じです。この世のすべてを与えると誘ったサタンに対して、主イエスは「退け、サタン」と悪魔を一喝しました。あのときと同じ強い口調でペトロを拒絶したのです。主イエスの立場は、ペトロの立場とは異なっていたのです。

〔5〕
 主イエスはこのとき、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とおっしゃいました。人間のことを思ってどうしていけないのでしょうか。人間のこと、隣人のことを思うのは人間関係として良いことではないでしょうか。ところがそうとばかりは言えないのです。

主イエスはここで、神のことと人間のこととを対比なさいました。私たちはこれと似た表現の主イエスの言葉を知っております。ある律法学者が、どれが一番大事な掟ですかと質問した時に、主イエスが答えられた場面です。マルコによる福音書の12章です。主イエスはこうお答えになりました。「第一の掟は、あなたの神である主を愛しなさい。第二は、隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃいました。第一は神を愛し、第二は隣人を愛しなさいの順番です。
さらにマルコによる福音書14章のゲッセマネの場面で主イエスはこう祈られました。「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。つまり私の願いより、神様の思いが優先するようにと祈られたのです。

どちらの言葉も、神様の御心が第一であり、人間の思いが第二になります。確かに、人間同士の思いは大事です。人間、互いに愛をもって仕えることが大切です。しかし、最後の最後は神の思いが優先されるのです。これが信仰というものなのです。私たちはまず神様があり、その次に人間同士の愛の交わりがあるのです。これが逆転することはありません。私たちが神を信じる限り、神が第一となるべきなのです。

 主イエスがペトロに言うのはそのことです。あなたはキリストをこの世の王、勝利者と見ているが、私は苦しめられ、殺される敗北者である。あなたは、この世的な願いから私をいましめるが、私は弱さを抱えたキリストとして死んで行く。その私をあなたたちは受け入れることができるかと主イエスは問い詰めるのです。私たちは、主イエスの問いの前に立たされています。

それは第二の掟である人間のことではなく、第一の掟である神のことを選ぶことができるかどうかという問いです。ここで人間のことを選ぶ者は、もはや神と何の関係もありません。ただのヒューマニズムに生きる者となるだけです。ヒューマニズムと神への信仰は違います。神への信仰はヒューマニズムをはるかに超えたものです。人間の思いを超えた神を賛美することができるかどうかが、信仰の分岐点になります。

人間的なこの世の思いから抜け出せないペトロは神に敵対する者、サタンと呼ばれます。サタンは神の思い、神の計画を妨害する者です。第二の掟を優先することで、第一の掟を破壊し、神との関係を切断するのです。主イエスの言葉は非常に厳しいものですが、ここに信仰の本質があるのではないでしょうか。

弟子たちの描くキリスト像はユダヤの人々の長年抱いてきた、徹底的にこの世的なものです。主イエスは、自分はそういう者ではないことを、今初めて、あからさまに公言したのです。ペトロのキリスト像とは全く違った、神様に示された道を歩まれるキリストだったのです。エルサレムに入場するかなり前から、主イエスはご自分の受難を告知なさいました。ご自分の死を公言されたのです。それは同時にペトロのキリスト像の破壊でした。しかし、よく考えてみますと、主イエスが洗礼を受け、ガリラヤで伝道を始めた最初の言葉、「福音を信じなさい」というみ言葉の中には既にご自分の死が含まれていたのではないでしょうか。ガリラヤでの活動の最初から、主イエスはご自分の死を意識しておられたということです。そう考えますと、私たちは主イエスのご生涯というものにある種の切なさを感じざるを得ないのです。ましてその死が私たちの罪を贖うためであるということに思い至りますと、ただただ頭が下がるばかりです。

〔6〕
 ペトロはこの時、主イエスの言うことが分からなかっただろうと思われます。「あなたは、メシアです」と喝破し、得意満面のペトロが、次の瞬間には「サタン」と叱責されたのですから、何が何だか分からない状態だったのではないでしょうか。

しかしこの時、主イエスはきびしさと共に、ペトロに配慮することを忘れておりませんでした。主イエスは、「サタン、引き下がれ」と言いました。「引き下がれ」は、「私のあとに引き下がれ」という意味です。つまり、主イエスはペトロをサタンと叱責しながら、ペトロを主イエスの背後に回れと命令して、そののち「わたしに従いたい者は」と続けます。主イエスはペトロをきびしく叱りながらも、自分の背後に回らせることでペトロを庇っているのです。決してペトロを排除しているわけではありません。私の後ろから、私に従ってついておいでと促しているのです。ペトロの考えを断罪しながらも、ペトロを救う道を備えていてくださるのが主イエスのやりかたです。

〔7〕
 次に主イエスは群衆もその場に呼び寄せます。群衆もまたペトロと同じように、主イエスをイスラエル再興のキリストという立場で考えているからです。

主は言います。誰でも私のあとに従いたい者は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と。「自己を捨てる」とは、それまでの罪に汚れた貪欲な自己を捨てて、大きく解放された自分に作り変えられることです。そして主イエスが私たちのために背負うことになる十字架を、主と同じように私たちも他者のために喜んで背負うようにと言われるのです。そして主イエスに従いなさいとおっしゃいます。私たちが主イエスに従うということは、私たちの前にはいつも主イエスがいて下さるということです。そのキリストもまた十字架を背負われているのです。キリストの担がれている十字架の端を見ながら、その後ろを私たちも進むのです。それが主イエスに従うということです。私たちの背負う十字架と、主イエスの背負う十字架は大きく異なります。主イエスの十字架は、罪を赦す力をもった十字架であり、復活に至り、今も生きている十字架です。その大きな違いはあるものの、私たちもまた主イエスに連なる十字架を背負っているのです。

〔8〕
 主イエスの第一声は「福音を信ぜよ」でしたが、その福音のため、主イエスのために命を失う者は逆にそれを得ることになります。永遠の命はただ主イエスによって与えられるのです。全世界を手に入れても、自分の命を失ったら元も子もありません。福音とは、この世に王国を作ることではありません。神様を第一とし、神様に従うことです。

 マルコ福音書が書かれた時代は、キリスト者は暴力的な迫害を被っておりました。その時代に、主イエスを受け入れない者は神の国が来た時にも受け入れられないのだと、福音を信じた者の信仰を鼓舞してくれております。現代の私たちもこの言葉に大いに励まされるのではないでしょうか。復活した主イエスを信じる私たちは、罪と死に打ち勝ち、今現在すでに世に勝って永遠の命を得て主イエスと共に歩んでいるのです。主に感謝して祈りましょう。

〔祈り〕
 主イエス・キリストの父なる神様。み名を賛美いたします。
今日は、マルコ福音書より、ペトロがこの世に自分たちの国の再興を願ったのに対して、主イエスがそれを否定し、ご自分の使命を初めて公言された場面を学びました。主イエスが父なる神の使命に従ったことから私たちが救われるに至りましたことを覚え、感謝申し上げます。
 コロナ・ウィルスの感染症が再び猛威をふるっております。全世界がその脅威に怯えておりますが、主の御力により収束に至らしめてくださいますように祈ります。今日この場に集う人々と、それぞれの場にあって祈りを捧げている人々を祝福してください。
この感謝と願い、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

     350ss reihaidou

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