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礼拝説教

2月2日礼拝説教

説教「命の恵みを共に受け継ぐ」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
                 ペトロの手紙Ⅰ 3章7節

 前回は妻に対する教えのところを読みました。今朝は、夫に対する教えです。妻に対する教えでも「同じように」という言葉が先頭にきていましたが、ここでも「夫たちよ」と呼びかけてすぐ「同じように」と続きます。
妻たちに対して「同じように」と語ったのは、奴隷がその主人に従うのと「同じように、その夫に従いなさい」ということでした。「従いなさい」というのは、「服従しなさい」ということです。夫たちにも「おなじように」と言われます。しかし「夫たちよ、妻に従いなさい」とは言われません。言われているのは、「妻を弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」という言葉です。

「従いなさい」と「尊敬しなさい」とでは受ける印象は、同じでなく、随分違うように思われます。「おなじように」とありますが、妻のほうは奴隷と同じように「従いなさい」と言われ、夫の方はただ「尊敬」するように言われる。これではやはり妻は夫よりずっと下に置かれていると思われるのではないでしょうか。聖書は結局、当時の家父長主義の見方と同じで、男女差別の立場にいるのではないか、妻と夫に「同じように」と言いながら、その実、同じに扱っていない。そう思われるかもせません。

 しかし「従いなさい」と言うのと「尊敬しなさい」と言うのは、内容を考えてみますと、それほど違いがあるでしょうか。夫に従う妻と、妻を尊敬する夫で、上、下の差が表現されているでしょうか。言われているのは妻に対しても夫に対しても神の御前に生きる信仰の生活です。そうすると「尊敬しなさい」とは、尊敬するふりをしろということではないわけです。従いなさいもそうで、本心から従えということでしょう。そうすると妻の従うには「夫を尊敬する」ことも入っているのではないでしょうか。少しも尊敬の念を懐かず、内心実は軽蔑していたら、とてもその人に本心から従うことはできません。本当に従うことは、尊敬することなしにはできないことです。また夫の場合を考えてみますと「本当に尊敬する」ことが求められているわけです。そして本当に尊敬したら、その人に真心から配慮し、時には喜んで従うのではないでしょか。「従う」と「尊敬する」は、表面的なごまかしでなければ、互いの距離は究めて近く、本心から従う者は尊敬を払い、本心から尊敬する者は当然従いもすると思われます。妻の服従も夫の尊敬も神の御前に生きる信仰の中では極めて近い在り方で、「同じように」と言われて当然ではないでしょうか。
どちらにしても神の御前に生きる信仰生活にあって互いに思いやり、助け合う生活が勧められているわけです。

 夫に対して言われていることには、もう一つありました。「妻を尊敬しなさい」の前に、「生活を共にする」ようにと言うのです。「共に」という言葉と「家」という言葉が合わさった言葉で、家を共にする、それで「共に住む」という言葉になっています。そうする理由として「妻を自分より弱い器であることを知って」と言うのです。「わきまえて」と訳されていますが、「知る」とか「知識」を意味する「グノーシス」という言葉が使用されています。

聖書の中でこの言葉が使われる時には、ただ人間の理性や知性で知るのでなく、自分は知らないが「神から知られている」(コリ一8・2)と言われるように、神の知、神の愛による知が考えられており、愛を持って知ることが意味されています。愛をもって知る、思いやりのある理解、それがここでのグノーシスです。妻の弱さを愛をもって知り、思いやって共に住むという仕方で、信仰による「新しい共同生活」が語られているわけです。ペトロは、その時代の結婚の制度を革命的に変革することには何の興味も持っていませんでした。しかしどんな家族制度の中であれ、神の御前で思いやりのある理解をもって、信仰による新しい共同生活を営むことを重大事としているわけです。

 この信仰による共同生活の中心にあることが、「尊敬しなさい」と言われる根拠として記されています。主にある信仰の妻と夫、それは教会員相互でもあるわけですが、新しい共同生活を生きます。そしてその内容は、「命の恵みを共に受け継ぐ者」の共同生活だと言うのです。それが妻を尊敬する理由です。教会全体に広げて言えることではないでしょうか。私たちはみな、主イエス・キリストにあって神の大きな救いの御業により、「命の恵みを共に受け継ぐ者」にされています。そえゆえ互いに尊敬しあい、仕え合うわけです。

「命の恵みを共に受け継ぐ者」とされたということをもう少ししっかりと受け止め、理解を深めたいと思います。「受け継ぐ者」とは、相続人、跡継ぎのことです。何を受け継ぐかと言いますと、「命の恵み」です。恵みですから神から受け取る命です。主イエス・キリストにある神の救の御業、そこから相応しくない者も、無条件で与えられる恵みとして命を受けています。主イエス・キリストの十字架の死による贖いにより、主の復活の命いあずかり、主にある命の恵みを受け継ぐ者とされました。受け継ぐのは、もうすでにその命にあずかりながら、その時が来たら決定的に継承することです。永遠の命に入る、それも共に受け継ぐのですから、共にそこに入ることです。

「受け継ぐ」と言う言葉は、終りの希望に属する言葉で、「永遠の命を受け継ぐ」(マル10・17)とも言われ、「神の国を受け継ぐ」(エフェ1・14)とも言われます。ペトロの手紙一では、この少し後、3章9節には「祝福を受け継ぐ」という言い方も出てきて、「そのためにあなたは召されたのです」と言われます。さらに言えば、この手紙の冒頭の第1章で、この言葉はすでに使用されていました。あなたがたは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」(1・4)にされているというのです。キリスト者とは受け継ぐ者にされた人であって、それが神の子とされたことです。

受け継ぐのは、何時の事でしょうか。受け継ぐのは、終りのことでしょう。神の国の全き到来のとき、神の国に含まれた命の恵みを、さらには永遠の命と共に祝福を、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐのだと言われます。この受け継ぎ、つまり相続は約束されていて、その約束の保証として聖霊の注ぎが与えられていると言われます。私たちが相続できる、受け継ぐことができるのは、永遠の命であり、命の恵みです。しかし終りの時に継承するものに、今すでにあずかっていることも事実です。キリスト者は神の子とされ、神の御国と命と祝福にすでにあずかっています。キリストを信じる信仰にあってすでにあずかりながら、それを受け継ぐ、共に受け継ぐ者たちにされているわけです。

 聖書はここで死を越えた秘儀的な事柄を語っています。キリスト信徒の信仰の奥義が語られています。私たちは命の恵みを共に受けて、すでにそれにあずかりながら、教会生活を歩んでいます。そして終わりの時に「命の恵み」を共に受け継ぐことが約束されています。パウロはこういう終わりのことを生きている時「もはや男も女もない」と言いました。ペトロはそこで、夫たる者、妻を尊敬しなさいと言うのです。死によっても引き裂かれない共同の恵み、将来共に継承する神の国の「命の恵み」に共にあずかっているのですから尊敬しなさい。

 その結びとして「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と言われます。どういうことでしょうか。長い間、この一行の意味が分かりませんでした。夫が個人として密かに祈る個室の祈りが、妻に妨害されないですむと語っているのでしょうか。そうではないようです。妻に対する尊敬を欠いたら、夫と妻の共同の祈りが成り立たなくなる。命の恵みの共同継承者たちの共同の祈りとして、神に聞かれなくなると言っているのです。一人密かに祈る祈りもキリスト者の深い祈りです。しかしここでは、それよりも共同の祈りの深さと真実さを知る必要があります。命の恵みの共同継承者たちの共同の祈りが深く真実な祈りとして神に聞かれます。共に住むのも共に祈るためであり、その共同の祈りが聞かれるためです。キリスト者たちの共同の祈り、キリスト者夫婦の共同の祈りは、命の恵みを共に受け継ぐ者として互の尊敬を伴った祈りです。共に祈る人々を尊敬しなさいとも語られているのだと思います。

天の父なる神様、私たちキリストのものとされた者たちが、命の恵みを共に継承する者とされていると聞かされ、感謝いたします。すでに復活の主の命にあずかり、約束のその時には御国と共に、死に打ち勝った命の恵みを受け継ぐとの約束を覚えて、希望のうちに前進することができますように導いてください。主の命の恵みを信じ、主を宣べ伝え、証しすることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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