礼拝説教
12月7日礼拝説教
説教「神の訪れによる救い」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ルカによる福音書1章67―79節
誰かが来てくれることによって、わたしたちの気持ちが変わり、生活も変わることがあります。救急車が来てくれたときの病人や怪我人の安心した気持ちは推測できるでしょう。あるいはありふれて、少し客足の減ったレストランでも、誰もが知る「時の人」とか、たとえば大谷翔平が食べに来たと言ったら、傾きかけた店も元気が出るのではないでしょうか。こういう例を遥かに越えて、神が訪れてくださる、父なる神が、そして御子主イエス・キリストが訪れてくださる。それが待降節、アドベントのメッセージです。そしてその神の訪れがどのようであって、救いがどう記されているか、その時わたしたち自身はどう変えられるのでしょうか。今朝の御言葉に聞きたいと思います。
お読みいただいた箇所は、主イエスの道備えとして主に先立って生まれた洗礼者ヨハネ、そのヨハネの父親であるザカリアが歌ったと言われる「ザカリアの預言」です。主イエスの母マリアが謳った「マリアの讃歌」は、よく知られているでしょうが、それに次いで待降節に読まれる代表的な箇所です。「マリアの讃歌」は「(主を)崇める」から始まっているので、そのラテン語によって「マニフィカート」と呼ばれますが、「ザカリアの預言」の方は最初の言葉が「ほめたたえよ」ですから、そのラテン語で「ベネディクトゥス」と呼ばれます。今朝はこの「ベネディクトゥス」による待降節のメッセージを聞きたいと思います。
ザカリアの預言(ベネディクトゥス)は、前半と後半とが別々の歌になっています。そもそも前半は完了形で書かれ、後半は未来形で書かれていますし、前半はイスラエルの歴史の文脈で書かれ、後半は光を中心にして、太陽や自然の文脈で書かれていると言ってよいでしょう。しかしその二つの別々の詩が一つのテーマでくくられています。その二つを貫く一つのテーマは「神の訪れ」「神が訪れてくださる」ということです。前半では、「(イスラエルの神である)主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(68節以下)と謳います。そして後半では78節ですが、「この憐みに拠って高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」と謳われます。
前半のテーマは主なる神がこの歴史の中に訪れてくださり、「救いの角」を起こしてくださった。それが「我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」と言うのです。敵の手、我らを憎む者の手からの救いという言葉にピンとくる方がおられるでしょうか。初代教会は、ローマ帝国の圧政の中にありました。その中でこの言葉を聞いたわけです。21世紀の現代でも戦乱の地にある人々は具体的に「われらを憎む者の手」を感じているでしょう。そういう歴史の争いや敵による恐怖の中に神の訪れがあって、歴史的現実的に「救いの角」を神は起こされたというのです。「角」は、通常、聖書の世界では雄牛や野牛の「角」です。「角」にこそ その動物の戦いの力があります。ですから「救いの角」は神の救いが力ある救いだと言うのです。敵を打ち負かし、追い散らし、その手からわたしたちを救い出す力ある救いです。
ですから、やがて誕生した主イエスは、我らの救いの角であって、どんなに荒れ狂う敵の手からもわたしたちを救い出してくださるというのです。神がその民を訪れて解放してくださる、そのために救いの角を起こされた。それが主イエス・キリストの誕生だと歌います。主イエスの救いは、キリストの勝利による救いであって、そこには歴史的で政治的な救いの出来事が意味され、神の訪れが歴史を変え、政治を変えると語っているわけです。クリスマスの神の救いの御業は、世界の平和や自由や正義に適った政治と無関係ではありません。神の救いの角が歴史を変えます。
こうして前半の預言は、神がその民を訪れ、敵の圧迫に苦しむ者たちに救いの角をお与えになったと歌いました。これに対し、後半で「訪れる」のは「光」、それも「あけぼのの光」です。主イエスは「救いの角」ですが、今度は「あけぼのの光」と言われます。歴史的・政治的に敵を打ち破り、その手から解放する力ある救いですが、今度は暗闇と死の陰に座している者たちを明るく照らす光の訪れです。
「暗闇と死の陰」にいる人々を照らすというのですから、「あけぼのの光」は「あけの明星」というよりは、もっと照らし出す「太陽の光」で、「あけぼの」ですから「朝日」の輝きのように思われます。ただし、「朝日」は地平線の下から少しづづ上ってくるものです。それがここではいきなり「高い所からあけぼのの光が訪れる」と言われます。下から上る光ではなく、高い所から、つまり神御自身からその憐みによって光の訪れがあると言うのです。高い所からの光と言えば、通常は真昼のことで、そこから次第に夕方に変えて日は沈みます。しかしここで言われている光は、夕方の光でなく、「あけぼのの光」ですから、新しい一日の歩みが始まり、活動の時が開始します。「神の憐みによって」「暗闇と死の陰に座している者たち」に新しい歩みが与えられます。
「暗闇と死の陰に座している者たち」とあります。「座す」つまり「すわっている者たち」です。暗闇の中では、わたしたちは歩くことができません。ただ座っているしかないでしょう。暗闇では、どっちに向かって進めばいいのか分からないからです。方向が分かりませんし、道も分かりません。しかも「死の陰」であれば、恐れや不安の中におかれていて、希望がありません。しかしその人をあけぼのの光が照らすとき、暗闇が終わり、進むべき方向が分かってきます。道が見えてきます。そして希望が湧いて来ます。
クリスマスの主イエスの誕生は、神の憐みによって「高い所からあけぼのの光の訪れ」があることだと言うのです。だから「ただ座すほかない」のでなく、歩き出せる。その方向と道とが示される。そして歩き出す勇気と希望とが湧くのです。
神の訪れは、わたしたちを変えます。神の訪れは「救いの角」を起こしました。当然、それがなかった時とそれが起きた後とでは人間の生活は変わってきます。74節にある通りです。「こうしてわれらは敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」。神の訪れによって救いがもたらされたとき、わたしたちに起きる新しい生活は、「恐れなく主に仕える」生活です。それも生涯にわたってです。「主の御前に清く正しく」とは、神との平和な関係の中で聖なる者、また義なる者とされてということでしょう。神の訪れによる救いがわたしたちを変えます。恐れなく主に仕える生活です。恐怖によって人間に仕えるのでも、国家に仕えるのでもありません。主に仕える。
「あけぼのの光の訪れ」はわたしたちをどう変えるでしょうか。これも簡潔に記されています。79節。あけぼのの光がわたしたちを照らし、「我らの歩みを平和の道に導く」。わたしたちは歩み出します。それも「平和の道」を歩み出します。わたしたち一人一人の日々の歩みを「あけぼのの光」である主イエス・キリストが導いてくださいます。主にあって「平和の道」を行きます。平和の道は本当は世界がこぞって歩むべき道でもあるでしょう。クリスマスのあけぼのの光の訪れは、世界全体に新しい歩みを与えています。
神の訪れを受けて、先立って救いを与えられた者たち、つまり教会は、「恐れなく主に仕え、生涯、主の御前に聖なる者、義なる者とされ」、そして「平和の道に導かれ」ます。教会は、神の訪れがわたしたちを変え、世界を変えたことを語り伝えていかなければならないでしょう。

ー礼拝スケジュールへー