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礼拝説教

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説教「むなしい生活からの脱出」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師

 ペトロの手紙Ⅰ 1章17~19節

 アドベント第一主日を迎えました。主イエスの終わりの来臨に備える意味もある季節です。すでに来られた主イエスによる救いによって、信じる者は新しい生活の中に入れられています。今朝の聖書は、主に贖われた者がどういう新しい生活の中で主の来臨を待つか記しています。新しい生活は「先祖伝来のむなしい生活」から贖われたとあります。かつてのむなしい生活から解かれ、今は救いの中に入れられています。「贖われた」のは、身代金を支払って買い戻されたということです。

 救いは贖いだというのは、奴隷が贖われる様子で具体的に理解できました。聖書の背景にあった社会には、厳しい生活の中で負債を負い、それを返済できず、奴隷に身を落とした人々がいました。また戦争の捕虜として奴隷になった人々もいました。そこから再び自由になって自分を取り戻すには、賠償金や身代金を払って自分を買い戻さなければなりませんでした。金や銀が必要だったわけです。奴隷状態はまた、個々人が経験しただけではありません。民全体が奴隷状態になることもありました。イスラエルの民の出エジプトの経験やバビロン捕囚の経験が示しているとおりです。神の救いの出来事は、その奴隷状態からの贖いの出来事として理解されたわけです。

「先祖伝来のむなしい生活から贖われた」とあります。「先祖伝来の生活」は、元来の言葉の使用法から言いますと、先祖伝来の誇らしい、むしろ名誉ある、高貴な生活を意味していたと言われます。それがここでは意味が逆転されています。かつては主イエス・キリストを知らず、主にあって神を信じていませんでした。その生活は「むなしい生活」で、そこから解放されなければならないものだった。主イエスの十字架による贖いとそこに示された神の愛、そして主の復活に示された神の力が、私たちを新しい生活へ生き返らせ、むなしい生活から解放しました。先祖伝来の生活は異教的なむなしい生活で、それには「誤った」生活、「ばかばかしい」生活という表現が近いと言われます。主の救いによって通常の言葉使いが逆転されたわけです。

「贖い」は買い戻すことですが、それには筋のとおった手順が踏まれなければなりませんでした。払われるべき相応のものが払われなければ正当な贖いにならないわけです。それで自由にされたと言っても、逃亡した奴隷のような自由であって、正々堂々たる自由でなく、もし見つけ出されたらまた奴隷に逆戻りすることになります。筋の通らない盗みのような救いでは、確かな救いになりません。筋のとおった救いでなければ、良心の平安は得られないでしょう。

それで「金や銀のような朽ち果てるものにはよらず」と言われています。この言葉の背景にはバビロン捕囚からの贖いのことがあります。イスラエルの民は、バビロニアによって滅ぼされ、国を失い、捕囚のみじめな生活に押し込められた経験がありあす。その時の預言者がイザヤ書40章以後を記した第二イザヤと言われる無名の預言者だったと言うのです。

彼の預言に、イスラエルは「銀によらずに買い戻される」(52・3)という預言が出て来ます。イスラエルは「ただで買い戻される」、なぜなら「ただ同然で売られたから」というのです。明らかにこの預言を踏まえながら、主イエスにあっては「ただで買い戻される」のでなく、しかも「金や銀のような朽ち果てるものによらず、キリストの尊い血によって」買い戻されたと語られます。むなしい生活に陥ったのは、私たちに何の落ち度もなかったとは言いきれないでしょう。そのとき主イエスは、道理を尽くし、踏まえるべき手順をしっかり踏まえ、しかも遥かにそれを越えた値を払い、それ以上ない確かな、堂々たる救いを遂行してくださったわけです。きずや汚れのない、そして朽ちることのないキリストの尊い血が支払われた。それは払うべき身代金を払うためだった。尊い血は、主の尊い命そのものです。キリストの尊い命が代償として支払われたことで、私たちはそれまでのむなしい生活から贖い出され、その結果、新しい生き方に変えられたのです。キリストのものとされた人生に変えられました。神の偉大な救いの御業は、正当な手続きの限りを尽くして実行されたわけです。

キリストの尊い命の代償により、キリストのものとされて、キリスト者の新しい人生が始まりました。17節で語られる生活はその内容です。「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼びかけている」。この文章は「父よ、と呼びかけている」が先頭に来ています。ですから「父よ」とあなたがたは神に呼び掛けている。それがすでにキリスト者の新しい生活で、しかも公平に裁かれる神にそう呼び掛けている、それが主の来臨に備えるキリスト者の生活です。

「父よと呼ぶ」のは本来、主イエスだけがなさったことでした。私たちもそう呼ぶのは、主イエス・キリストの尊い血による贖いの業に基づいてです。主イエスと共にあり、主の霊でもある聖霊を受けてです。主イエスは私たちを御自分と同じに、神の子にしてくださり、神を「父よと呼べ」とおっしゃってくださいます。神と人間を親と子の関係になぞらえ、神を父とするのは多くの宗教にあると言われるかもしれません。

しかし主イエスが神を「アッバ」と呼んだのは、ただ父と子の一般的な関係で呼んだのではありません。「アッバ」は、きわめて親密な父への呼びかけで、主イエス以外の誰もこの呼びかけで神を呼んだ人はいなかった呼びかけです。神は主イエスのこの上なく親密な慈愛の父です。イエス・キリストがその尊い血によって贖いを果たされたのは、私たちをその神の子とし、主イエスが呼ぶのと同じ呼びかけで、親しく「父よ」と信頼を込めて呼ぶことができようにしてくださったのです。主イエス・キリストによって示された神の愛からは、使徒パウロが言うように、死も命も、現在のものも将来のものも、何ものも私たちを引き離すことはできません(ロマ8・38以下)。

しかも父である神は、真に神である方として「公平に裁く」ことを少しも失っていません。「公平に」という言葉には「顔」という言葉と否定語の「無」という言葉が合わされ、顔によらないで裁く、つまり例外なしに裁くことです。信仰のない人は信仰のない人として裁かれますが、信仰のある者も信仰のある者、罪を赦された者として裁かれます。

だからキリスト者は、「神を畏れて生活する」と言われます。これがキリスト者の「新しい生活」です。主イエスの尊い血による贖いを受け、罪を赦された者として、「父よ」と神に呼びかけるとき、赦された者だけが懐く神への畏れ、畏敬をもって神の御前にあります。詩編130編に「主よ、あなたが罪をすべて心に留めるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(4節)とあります。罪を赦された者こそが神を深く畏れ敬うのです。罪の赦しによる救いを知らなかったら、公平に例外なく裁かれる神をただ恐怖するほかない、神から逃亡を図る以外にないでしょう。神の聖前に生きることはできません。神と共にいることができません。

しかし主の尊い血によって贖われ、罪を赦された者が知る恐れは、震えおののく恐怖でなく、神から逃亡するのでなく、深い畏敬の中にあって神への揺るぎない信頼をもって神と共に生きます。神と共にある喜びに生き、そして感謝に生きます。父よと呼ぶことをゆるされた者の神への畏敬には、死によってさえも神の愛から引き離されないという安心もあります。その畏敬には当然信仰を生きる真面目さもあるでしょう。罪赦されて知る神への畏敬の中で、信仰は誠実な信仰にされます。どんな試練をも受け止め、雑り気のない信仰にされるのではないでしょうか。また罪赦された者として知る神への畏敬の中で、どんな時にもその赦された人生を生き抜く勇気も湧くでしょう。

主イエスの尊い血、尊い命が支払われたことで、神への畏敬による新しい生活に変えられました。罪を赦された者だからこそ知る神への畏敬の生活があることを覚えて、アドベントの日々を歩みたいと思います。

天の父なる神様
御子主イエス・キリストの尊い血によって贖われ、罪赦された者として聖前(みまえ)にあることを感謝いたします。聖なる御神の御稜威(みいつ)を畏(かしこ)み、御栄光を拝し、御力に服して、御栄のために生きることができますように。主イエスにあって聖なる神の愛と慈しみを証しすることができますように、御子主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 
      380紫講壇

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