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礼拝説教

6月7日礼拝説教

説教「霊に従って歩む」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
 
   ローマの信徒への手紙8章4~8節

 人間、どう生きるかという問題は、漫然と生きている場合でも、心のどこかに問いとして、誰もが抱いているのではないでしょうか。キリスト者というのは、その問いに対して信仰生活によってはっきりと答えている人たちです。多くの場合、主イエス・キリストにある者とされて、主と共に生きる、あるいは主の御言葉に聴き、主に守られ、主に従って生きると答えるのではないでしょうか。
しかし今朝の御言葉には、「肉にではなく、霊に従って歩むわたしたち」という言葉が出て来ます。キリスト者は、道徳的にどう、あるいは政治的にどうというのでなく、「霊に従って歩む」人であって、それは「肉に従って歩む人」と異なると言うのです。一体、「霊に従って歩む」とは、どういうことでしょうか。そしてここには「歩む」だけでなく、「思う」ということも記されています。人生を生きる、この世界を人としてキリスト者として生きていけるのは、霊に従って歩むことができ、霊に属することを思うことができると言うのです。

 聖霊に従って生き、歩み、そして思うのですが、振り返って見ますと、このことについて説教することが、少なすぎたのではないかと反省させられます。主イエス・キリストにあってキリスト者とされた者の生き方は、霊に従って歩み、霊に属することを思うのですが、ここでパウロは、キリスト者の中の特別な人だけがそうするとは語っていません。キリスト者であれば、誰でも例外なく、霊に従って歩むのであって、そうすることで神の律法を満たし、さらに霊に属することを思っていると言います。

 キリスト者はイエス・キリストにあって罪を贖われ、神の子とされています。そして洗礼において、主イエスの死と命にあずかりました。ですから生きている間は、主と共に生き、死ぬときには主が死んでくださった死を主と共に死にます。しかもいますでに主イエスと共に生きる復活の命にあずかって、将来の命も希望しているわけです。
 それなら当然、主イエスを死から甦らせた神の霊、そして復活したイエス・キリスト御自身の霊、つまり聖霊を受けて生かされているわけです。イエス・キリストにありながら、聖霊を受けていない人はありません。このことをしっかりと認めて、確信を持った信仰生活を生きたいと思います。

 キリスト者の中でも特別な人が霊に従って歩んでいるのではないと言いました。わたしたちは、イエスをわが主キリストと信じます。しかし「聖霊によらなければ誰もイエスは主であると言えないのです」(コリント第一12章3節)と使徒の言葉にあります。わたしたちは神の憐みに拠り、御子の贖いによって、罪赦されて神の子とされたことを信じて、「アッバ、父よ」と祈ります。しかし「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊をわたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4章6節)とも言われています。主イエスにあってイエスを主と信じ、神に父よと祈るキリスト者は、確実に聖霊を心に送られ、その聖霊によって信じ、祈って、生きています。聖霊に従って歩み、霊に属することを思っています。

 キリスト者は聖霊の賜物を受けているとも言われ、その典型が信仰と希望と愛とも言われます。とりわけキリスト信仰者として、愛を与えられていて、神を愛すると共に、隣人を愛します。これをもし霊に従って歩んでいるのではないと言ったら、あなたは自分の能力で信じ、愛しているとでも言うのでしょうか。そうではなく、父なる神の霊、そしてキリストの霊によって歩み、信じ、愛しているわけです。
それが「神の律法」に従い、その要求をみたすことだと言われます。霊に従わないことは、肉に従うことであって、「肉」は神を神としない生き方のことです。自分を神にする自己中心、あるいは本当には神でないものに支配された卑屈な生き方です。そうした神には敵対し、神でないものに屈服する生き方を、主イエス・キリストにあるキリスト者は過ぎ去った過去のものにしました。

 霊に従って歩む者は、霊に属することを思うとあります。肉の思いではない。自分はいつでも肉の思いにいるのではないかと不安に思っている場合があるかもしれません。肉の思いに陥っているのではないか、と。しかし信仰の確信を失うべきではありません。どんなに肉の思いを持っているようであっても、8章冒頭にあったように、「イエス・キリストにある者は、罪に定められることはないのです」。イエス・キリストにある者は、キリストの恵みの中に置かれ、キリストの霊を心に送られていて、御霊の力の下におかれています。肉の支配下にいるのではありません。わたしたちは神の救いの御業を信じますが、ただ信じるだけでなく、その信仰、神の愛による救いの御業の信仰に確信を持つべきです。信仰に確信を持たないことは、神を侮ることにもなるのではないでしょうか。

 肉の思いは死であると言われます。「罪によって死が入り込んだ」(ロマ5・12)と言われ、「罪が支払う報酬は死」(ロマ6・232)とも言われます。罪は、命の創造者である神、命の主である神に敵対するわけですから、生きることになりません。それに対して、霊の思いは命と平和、神の命にあずかり、神との平和の中におかれています。

 さらに聖書は「神の喜び」について語っています。「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」と言われます。肉は、神を神とせず、神を侮り、神に敵対し、他のものを神にするのですから、神に喜ばれることはないでしょう。そしてそのことは、主イエス・キリストにあって、霊に従って歩み、霊に属することを思う者は、「神に喜ばれる」ということを当然にしています。そうすると、肉の思いが死であるのに対し、霊の思いは命と平和であり、命と平和は神に喜ばれている中にあるということでしょう。神に喜ばれているのでなければ、本当の命にはならないと思います。平和も、本当の平和は何よりも神との平和であり、そこから人々との平和、他者との平和が支えられるます。神の喜びの中におかれて、わたしたちは本当に命を思い、他者との平和を思えるのではないでしょうか。

 神に喜ばれていれば、わたしたちも喜ぶことができます。このことは今朝の御言葉には記されていないことに及ぶようですが。信仰生活には喜びがあるということは、よく語られることです。今朝も霊に従って歩む中には、神に喜ばれることによって、信仰者自身にも喜びがあることを結びに語っておきたいと思います。キリストにあり、その霊に従い、霊に属することを思えば、神に喜ばれます。そしてそこに信仰者、キリスト者自身の喜びも湧きます。キリスト者の喜びをパウロは、ガラテヤ書の中で「霊の結ぶ実」として語っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和・・・」(ガラ5・22)であると。ガラテヤ書では、霊の賜物は、真っ先に愛、それに次いで喜びです。そして第三が平和になっています。

 信仰生活には、嘆き、悲しみ、泣くときもあるでしょう。しかし根本は、主イエス・キリストにあって、霊に従う者は、神に喜ばれ、そして命と平和を思い、愛と喜びに生きるものです。
旧約聖書ネヘミヤ記8章には、バビロン捕囚から帰還し、神殿を再建し、そしてエルサレムの城壁を再建した時のことが記されています。城壁の一箇所、水の門の前にある広場に人々が集まって、祭司であり書記官であったエズラに律法の書を持ってくるように求めたと記されています。そして祭司エズラは律法を持ってきて、夜明けから正午までそれを読み上げ、次いで、レビ人の幾人かがその律法を説明し、人々が皆、その意味を理解したとき、泣いたとあります。そのときの総督ネヘミヤの言葉は記憶するに値します。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(8・10)。主イエス・キリストにあって、その霊に従って生きることは、神に喜ばれ、それゆえわたしたちも、泣くことに勝って喜ぶことができます。主を喜ぶことができ、わたしたちの生きる力の源を持つことができます。

 御子をわたしたちのために惜しみなく十字架に渡された父なる神様、主イエス・キリストにある者として、御霊に従って歩むことができますことを感謝します。命と平和を思い、あなたに喜ばれる生活に生きて、あなたの恵みを証しすることができますように。色々な課題をもった時代の中に置かれています。どうか世界のキリスト者たち、とりわけ日本のキリスト者たちに信仰の喜びと、それゆえの力を与え、福音伝道を力強く進めていくことができますように導いてください。主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

      300百合

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