礼拝説教
7月5日礼拝説教
説教「死すべき体を生かす神」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ローマの信徒への手紙8章9~11節
ロマ書8章はパウロの信仰の頂点を示すと言われます。もしそうならそれは、初代教会の信仰の深みを示す箇所とも言えるでしょう。そういう箇所として今朝の礼拝でも、耳を傾けていきたいと思います。
パウロはロマ書8章で、神の霊、つまり聖霊について語ります。今朝の箇所の9節では、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にいます」と言い、「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言います。聖霊とは何であり、またわたしたちにどういう関わりがあるのでしょうか。
わたしたちは、キリスト者にされた者です。キリスト者とはどういう人で、どういう人生を生きているのでしょうか。色々な言い方があると思いますが、「キリスト者」だということは、「主イエス・キリストにあるもの」にされたということでしょう。自分自身としては、行動にも、心のうちにも、いろいろ欠けのある、不完全な者です。ですが、主イエス・キリストにある神の救いの御業によって、主にあるものとされ、主のもの、つまりキリスト者にされました。それはまた、主イエスにあって神を信じ、「父なる神よ」と祈るものにされました。それは「神の子」とされたことですが、誰も自分の力や努力でそうされたわけではありません。主イエスを「わが主」と信じ、神を「天の父よ」と呼ぶ者、そう祈る者にされたのは、神の霊によってです。
この9節には、「神の霊」は、また「キリストの霊」とも言われます。それで、わたしたちが「キリストにある」ものにされたことは、主イエスを主と信じ、神に父よと祈るものにされたのですが、それは、神の霊、そしてキリストの霊である聖霊によることであって、つまりは「御霊にあるもの」にされたことでもあります。「キリストにある」ならば、誰でも「キリストの霊にある者」にされています。「霊の支配下にいます」とあるのは、原文では「霊にある」という言葉です。わたしたちキリスト者は、主イエスを信じ、キリストにある者にされ、神の子とされ、神に向かって父よと祈ります。キリスト者の中で、特別、優れたキリスト者がそうするわけではありません。キリスト者であれば、信仰の薄いキリスト者であれ、信仰の弱いキリスト者であれ、みなそうします。それは御霊によって、そうできるのであり、キリスト者は皆、例外なく「霊にある」ものにされているわけです。
9節の主文章は、「霊にある」ので、もはや「肉にある」のではない、と言われます。それを分かり易く、「肉の支配下でなく、霊の支配下」にいると言っています。「霊にある」という状態は、色々な表現で語られていて、「神の霊があなたがたの内に宿っている」と言われ、「キリストの霊を持つ」とも言われます。わたしたちが「霊にある」のは、神の霊が「あなたがたの内に宿っている」ということと言うのです。
わたしたちが「キリストにある」ということは、「キリストの霊にある」のですが、それは霊の方からわたしたちの内に宿るとも言われます。通常、これを、「聖霊の内住」と言います。キリスト者であれば、その誰にでも霊が宿り、聖霊の宮とされます。また、霊を持ち、霊を身に帯びるわけです。このことは何か異常なことが言われているわけではありません。これは、具体的には霊の賜物を帯びることで分かります。霊の賜物は、信仰であり、希望であり、愛です。平和であり、喜びです。命であり、力です。また時には「神の武具」とも言われ、信仰の盾、救いの兜、御言葉の剣と言われます。そうした霊の賜物を身に帯びるのが、キリストにあり、それゆえ御霊にいますすべてのキリスト者に例外なく言われることです。
ですから、わたしたちは信じていますし、希望を失わず、愛と平和を生きています。そのとき、わたしたちが神の霊・キリストの霊にあるとともに、霊がまたわたしたちの内にいてくださる。そのときわたしたちは、肉の支配下にはいない、つまり神から引き離し、遠ざける肉の支配下にはいないわけです。このことを認めて、受け取めるのがキリスト者ではないでしょうか。
ここには、さらに二つの仕方で、わたしたちに対する御霊の働きが記されています。一つは10節で、「キリストがあなた方の内におられるなら」とありますが、その意味はキリストの霊がわたしたちの内におられるからということです。「体は罪によって死んでいても」、つまり死んだ状態であっても、「霊は義によって命となっています」。霊にある者とされ、罪の支配下にはいません。罪は罪としてすでに主イエスの十字架における贖いの出来事の中で、神によって断罪され、無力化されています。ただしかし、わたしたちの信仰生活には、無力化されたその罪がなお誘惑し、攻撃してきます。それでわたしたちの生活の体は死んだ状態になる。これは現在のことを語っています。この状態の中でも、しかし「霊は義によって命となっています」。これはキリストの霊のことを言っているという解釈もあります。ですが、「体は罪によって死んでいても」というのは、わたしたちのことですから、この霊は、キリストの贖いと復活の霊によって義とされ、命とされるわたしたちの霊、わたしたち自身のことでしょう。信仰生活の戦いの中で、聖霊はわたしたちの霊、わたしたちの信仰生活を義によって命としてくださる。信仰生活が有罪として見捨てられたり、死んだ状態の中に見捨てられることはないと言われるのです。不十分な信仰生活であっても、義によって命とされ、新しく生かされています。体は死んだ状態でも、今すでに義とされて、新しく生かされている命があります。
さらにもう一つの御霊の働きが、はっきりと語られます。わたしたちが主イエスにあって、その霊にあるとき、それは神の霊にあることであり、神の霊がまたわたしたちの内にある。神の霊は、わたしたちを聖霊の宮として、わたしたちの内に住まわれる。その御霊が、今現在、わたさしたちを義によって生かしてくださっているのですが、それだけでなく、将来、神はその霊によって「わたしたちの死ぬべき体をも生かしてくださる」と言うのです。「生かしてくさるでしょう」とあるのは、未来形で書かれているからです。この「生かす」という動詞は、非常に強烈な言葉です。「命」という言葉と「創造する・実行する」という言葉が合わされて、命の創造、生き返らし、生き生きと生かす。御霊はそのように実行されるというのです。聖霊は命の霊であり、生かす霊ですが、また神の創造的な力を遂行する霊でもあって、死人の中から復活させる力です。
それで、11節は「キリストを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら」と言い、さらに繰り返して、「キリストを死者の中から復活させた方は、その霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。今現在は、聖霊は、キリストにあり、また霊にあるわたしたちを、義によって命にし、つまり生かしてくださっています。そして将来、神はその霊によって、わたしたちの死ぬべき体をも生き返らせ、生き生きと生かしてくださる。
ここに「あなたがたの死ぬはずの体をも」とあります。「をも」とあるのは、重大で、今は、霊にあってわたしたちを命にしてくださっている方、つまりわたしたちの霊をすでに生かしてくださっている方が、わたしたちの体をも、生かしてくださると言います。それだけでなく、「キリストを死者の中から復活させた方」が、「あなたがたの死ぬはずの体をも」、つまりキリストが復活なさったように、わたしたちの死ぬべき体をも生き返らし、復活させてくださると言うのです。神の霊による働きは、いますでにわたしたちを生かしてくださっていますが、やがて将来、わたしたちの体、死ぬべき体、傷み、病む体をも、キリストが死者の中から復活させられたように、復活させ、復活のキリストの終わりの時の栄光の体にあずからせて生き返らせてくださいます。
信仰を与えられて、今、信じ、希望し、愛を持って信仰生活を生きていることは、神の霊を与えられている徴です。その霊にあって、今すでに義によって生かされているのは、やがて、キリストと同じように死に打ち勝った栄光の体に復活させられる保障とも言えるでしょう。この将来の生き返らしには、主にあって先に眠りに就いた者との再会ということも含まれているでしょう。霊にあって生きることは、喜びのうちに希望をもって生きることでもあります。
天の父なる神様、あなたは溢れ出る恵みをもって、わたしどもを、主キリストにある者にしてくださり、御霊にある者にしてくださっておりますことを、心から感謝します。御霊にあって今現在、義によって命とされ、また終わりの時には、あなたが、御霊によってわたしどもの死ぬべき体をも生かしてくださることを信じて、感謝いたします。聖霊による信仰の生活を今現在、感謝と喜びのうちに生きて、終りの時の聖霊による体の甦りという、まことに大きな恵みを信じ、受け容れ、確信することができますように。そして信仰による希望と喜びに生きて、あなたの福音を証し、伝える者となれますように、貴き御子・主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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