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礼拝説教

1月4日礼拝説教

説教「主イエス、病人を癒す」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
 
  ヨハネによる福音書5章1-18節

 主イエスの御業の中に病人を癒す働きがあったことは、どの福音書にも、一度ならず出てきます。病人の癒しは、それだけ主の御業の中でも重大なものであったと思われます。今朝はヨハネによる福音書5章1節以下に記されているベトザタの池での癒しの出来事から主イエスの働きを学び、活ける主イエスの御業を信じる信仰にしっかり立っていきたいと思います。

 イスラエルの都エルサレムの中に五つの回廊に囲まれたベトザタという池がありました。事実、1949年にこの池と回廊の跡が発掘され、その所在が明らかになりました。五つの回廊というのは、池の周囲を囲む四つの回廊があったほかに、もう一つの回廊があって、その池を二分していたということです。ヨハネによる福音書が伝えるところによりますと、その回廊には「病気の人」、「目の見えない人」、「足の不自由な人」、「体の麻痺した人」などが、大勢横たわっていました。この個所を記す写本はいくつかあって、池の名称も写本によって異なり、「ベテスダ」という名を伝える写本もありました。口語訳聖書はそれを採用していましたので、「ベテスダの池」と記憶している方もおられるでしょう。共同訳聖書は別の写本を採用していますので、池の名は「ベトザタ」と言われます。「ベテスダ」であれば、ヘブライ語で「憐みの家」という意味の池ということになり、病気の人が集まる池の名としては一層相応しいとも思われます。しかしその池の現実の光景は、とても「憐みの家」ではなく、悲惨な場所であったことは明らかです。池は恐らく間欠泉だったのでしょう。水が動くというのは、おそらく水が噴き出すときに動くのでしょう。そのとき真っ先に池に入る者が病気を癒されると言われていました。先を争って池に入ろうとする悲惨な光景が繰り返されたのではないでしょうか。

 そこに38年間も病気で苦しんでいる人が、横たわっていたと言われます。イエスはその人を見て、もう長い間病気であるのを知り、そして声をかけ、その人を癒されました。その人の病気が何であったかは記されていません。それだけにかえってこの出来事は、誰にとっても身近な出来事になります。38年もその場にいたと言うことは、その人の言い分では、自分には池に運び入れてくれる人がいないということで、言ってみれば、病気であることだけでなく、友人がいないこと、共に生きる人を持たない孤立した人生であったことが、長期にわたる病と結びついていたわけです。さらに言いますと、この人は主イエスのことも知りません。信仰の生活も持っていませんでした。

その人を、主イエスは見て、病気であると知って、そして声をおかけになりました。「良くなりたいか」と。そして「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出したというのです。それがこの時の主イエスの癒しの業でした。この出来事からわたしたちは、自分自身も癒されるだろうか、主イエスの御業にどうあずかれるのか、今この時の主イエスの御言葉と御業を受け取りたいと思います。

 38年間の病の人は主イエスを知らず、信仰もなかったと申しました。ですからここでの癒しは、「あなたの信仰があなたを救った」とは言われません。ですが、主イエスはその人を見て、その病気を知り、そして声をおかけになった。癒しの業は、その主イエスの御業の中で始まり、遂行されました。主イエスの行かれるところ、そして主イエスのおられるところ、病人の癒しが起ったのです。そして今日も起きるでしょう。逆に言いいますと、病人の癒しが起きている所、そこに主イエスが働いておられるのではないでしょうか。
主イエスは「良くなりたいか」と聞かれました。良くなりたいと願うことは、誰だって当たり前とも言えます。しかし38年、おそらく人生の大部分を病気の中に過ごしてきたら、改めて良くなることの意欲はとっくに衰えているとも考えられます。しかし主イエスはわたしたちに良くなりたいかと尋ね、良くなりたいと思う心を求めておられます。良くなるということは、病気でなく健康を欲することです。死ではなく命を願い、生きることを願うことです。神は命の創造者です。そして主イエスは復活の活ける主として今日も共にいてくださいます。主は命じておられるとも言えるのではないでしょうか。病でなく健康を欲しなさい。死ではなく、命を、生きることを願いなさい、と。

38年間の病の人は、自分を池に入れてくれる人がいない、病から抜け出せないのは友人がいないからだと言います。この問題も誰もがもっている問題ではないでしょうか。沢山の友人がいるという人の話も聞きますが、友人がいないと言う人も多いのではないでしょうか。健康と命を肯定すると共に、友人を作れということでしょうか。主イエスは友人を持つというより、あなた自身が誰に対しても、とりわけ困難の中にある人に対して隣人になるように命じておられます。ですから、友人を持てとか友人を作れというよりは、あなた自身が他の人の友になれと言われるでしょう。ですが、今朝の癒しの出来事の中では、主イエス御自身が38年間の病の人、池に入れてくれる人がいないと言った人の友になったのではないでしょうか。

 そのことは癒しの奇跡の結果から分かります。この病人を癒して、床を担いで歩きなさいと主は命じましたが、それが安息日であったので、安息日に床を担いで歩かせたと言って、「ユダヤ人たちはイエスを迫害しはじめた」(16節)とあります。さらには「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と主が言われたので、「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」(18節)とあります。病人の癒しは、結果からしますと主イエスの命掛けの働きになりました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15.13)と同じヨハネによる福音書に主の言葉があります。主イエスは大きな愛を持って、わたしたちのために命を捨てて、病の癒しをなさいます。

友人がいる、いないというときに、主イエス・キリスト、活けるキリストの実在を信じて、活けるキリストはまことの主にして、しかも真実の友でいてくださることを思うべきでしょう。活ける主イエスの愛の御業によって、今日も生かされていると思うべきです。ですから、キリスト者であって、孤独な人はないのです。活けるキリストは真実の友でもいてくださるからです。

この癒しの出来事にあって、「憐みの家」とも言われながら、実際は悲惨であった場所が、主イエスの働き、その愛によって、まことに「憐みの家」になりました。活ける主キリストがおられ、働いてくださるところ、そこは真の「憐みの家」になります。教会はキリストの体ですから、憐みの家であり、そうでなければならないでしょう。キリスト者の家庭もまた憐みの家であるはずです。主イエス・キリストが活けるキリストとして働いてくださるからです。
主イエスはなぜ働いてくださるのでしょうか。それは主イエス御自身の言葉で、「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」(17節)とあります。主イスは父である神のひとり子である神として、父なる神が働いておられるから、働く。命の創造者なる神が今もなお働くゆえに、病を癒されるひとり子なる神も働いておられます。わたしたちは主の御意志、主の御命令に従って、病よりは健康を欲し、死ではなく命を願い、生きることを願うと共に、活ける主イエス・キリストがわたしたちを生かす主であり、真実の友であることを信じて歩みます。

 キリスト教伝道は医療の発達にも影響を与え、医療活動の不十分な地域にはクリスチャン・ドクターを派遣し、医療伝道の形の伝道を行ってきました。独善的な主張になってはいけませんが、福音の伝えられるところ医療活動ももたらされたのです。心中密かに思うことですが、一人の病人を救急車が運びます。他の車は一斉に脇に寄り、赤信号の中も救急車は突き進みます。一人の人の命がそれだけ重要なのだと誰が教えたのでしょうか。キリスト教伝道の進むところ、一人の命の尊さが伝えられます。病気でなく健康を欲し、死ではなく命を願う。なぜなら、主イエス・キリストが命を懸けて癒すことに働いておられるからです。

天の父よ。あなたが今日も働いておられるので、独り子・主イエス・キリストも働かれると聞きました。主がご自分の命を懸けて、病める者の癒しにお働き下さることを感謝したします。わたしたちもどうか病める者の友となり、病よりは健やかさを、死よりは命をあなたに願うことができますように。そしてわたしたちの教会が、あなたの憐みの家となり、命を尊び、生きることを悦ぶ信仰と力を与えられ、世に発信していくことができますように。あなたのひとり子にして教会の頭である主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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