礼拝説教
4月5日礼拝説教
説教「キリスト・イエスにある人」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ローマの信徒への手紙8章1節
ローマの信徒への手紙は使徒パウロの代表的な手紙ですが、なかでもその8章は頂点をなしていると言われます。パウロのロマ書8章は、アシジのフランチェスコの「太陽の讃歌」に当たるという表現にも接したことがあります。もちろん聖書は決して単純ではありませんので、ほかの見方もあって、例えばロマ書5章は、「キリストの血によって義とされた」と語っていて、それこそロマ書の中心だという説教者もおります。いずれにしても全体16章のロマ書の前半は1章から8章までが一つの纏まりをなしていて、8章はその締めくくりの章です。今朝は8章の冒頭の1節をお読みいただきました。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とあります。「従って、今や」というのは、それまでの記述を踏まえて、その結論を語るわけです。とりわけ直前の7章を踏まえてですが、しかしその前から始まる記述も踏まえ、「従って、今や」です。ここからが結論です。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。この結論の言葉が今朝聞くべき恵みの福音です。この御言葉が告げる神の御業が、ロマ書の頂点であり、パウロの信仰、初代教会の信仰の重大な山場が、この一事にあります。
「罪に定められることはない」ということはどういうことでしょうか。「罪に定められる」という言葉は「有罪の判決」という言葉です。ですから、キリストに結ばれている者は「有罪判決を受けることはない」「断罪されることはない」と言うのです。それも、この8章1節は「ない」という言葉が最初になっています。しかもただないのではなくて、それが強調され、一つとしてない、決してない、まったくないというのです。キリスト・イエスに結ばれている者が有罪判決を受けることは、例外なく、一切ないのです。
「キリスト・イエスに結ばれている者」というのは、「キリスト・イエスにある人」という言葉です。「キリスト・イエスにある」というのですから、キリスト・イエスに結ばれていると訳してよいでしょう。ですが、キリスト・イエスにというのは、主イエスが場所のようになって、そこにわたしたちは場所を与えられているわけです。キリスト・イエスにあるというのは、主イエスの愛の中に置かれているということでもあります。主イエスの恵みの影響下にある、あるいはその御力の及ぶ領域にあるわけです。キリスト・イエスの恵みの中、その力の中におかれているということは、もっと具体的に言うと主イエス・キリストの十字架の愛と御力のもとにいることです。その人は「罪に定められることは一切ない」というのです。
その人自身に罪がないと言っているのではありません。キリスト者であるわたしたちは、罪を赦された者でありながら、なお罪を犯すことがよくあります。神様を忘れ、自己中心に生きている自分に気づかされます。神を真に神として仰ぎ、心からの信頼を神に寄せているか、それをしないために毎日が不安にになっていないでしょうか。喜びや希望が欠けていないでしょうか。まだキリストを知らなかった過去にそうだったというだけでなく、今も、さらに将来も、罪から自由にはなれないのではないでしょうか。それはそうでしょう。誰も自分の力で罪なきものになれる人はいません。罪の力にたかをくくることはできないでしょう。教会は罪のしぶとさを知って、「原罪」(オリジナル・シン)という言葉を使いました。それは罪の根深さ・根源性とともに、それが例外なくどの人をも捉えている普遍性、全体性を言い表わしています。しかしそうであっても、キリスト者として、キリスト・イエスにある者にされた人は、「罪に定めれることはない」のです。
キリスト・イエスにあるということは、主イエスが私たちの罪のためにその裁きを負ってくださった十字架の主イエス・キリストにあることであって、その十字架の主にあずかり、その死にあずかることです。だから、罪があるのに「罪に定められること・有罪判決を受けること」「断罪され、見放され、見捨てられる」ことは、「一切ない」と言われます。
過去の罪から解かれたことが言われているだけではありません。今現在、わたしたちの日々の生活の中で、罪に堕ちるわたしたちが、それでももっと根本的な意味で主キリスト・イエスにある者にされていますから、罪に定められ、有罪の判決を受けることはなく、さらに将来のことも含まれています。この先たとえどんな罪の誘惑にさらされ、時にその誘惑に負けるとしても、しかし主キリスト・イエスにある者は決して「罪に定められること」はありません。どんなに大負けしても、キリスト・イエスにある人は、キリストの勝利にあずかっています。
罪の罪たるゆえんは、神から離れることです。神に反逆し、神なしの人生になることです。ですから「罪に定められる」「有罪の判決を受ける」ということは、その罪が確定すること、罪がはじめた神なし、神への反逆が確定することです。逆に「罪に定められることはない」ということは、神が共にいてくださる、神の愛から引き離されないということです。ですからロマ書8章は、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれた者は罪に定められることはない」という言葉からはじまって、最後の38・9節では「現在の者も、未来のものも、・・・高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言われます。「罪に定められることはない」ということは、「神の愛から引き離されることはない」こと、何ものによっても引き離されない神の愛にしっかりと掴まれていることです。
罪の罪たるゆえんは神から離れることと言いましたが、それはわたしたちの内なる罪がそのように働きます。しかしそれだけでなく、同時にわたしたちの外からの罪もわたしたちを神から引き離そうとするとも言わなければならないでしょう。他者の悪や不正が脅かし、わたしたちに困窮を引き起こすことがあります。罪は内なる不安を起こし、外からの患難も起こします。「罪に定められることはない」のは、主キリスト・イエスにあることが、内なる不安に打ち勝つとともに、外からくる患難にも耐える力になるのではないでしょうか。神の愛から引き離されないことが、内なる不安を克服し、外からの患難に耐えさせるとも言えるでしょう。
「罪に定められることがない」ということがどれほどの救いであり、恵みであるかを知ると同時に、その根拠になっている「主キリスト・イエスにある」ということがどんなに素晴らしいことかを知っていなければならないでしょう。「主キリスト・イエスにある人」は、主キリスト・イエスに結ばれ、主のものとされ、主の死と命にあずかっています。主キリスト・イエスにあるということは、洗礼を受けているということでもあり、主の体である教会に加えられ、その枝とされていることでもあります。主にあるということは、主の十字架の救いにあずかり、また主の復活の命にあずかることです。主にある人は、主イエス・キリストの勝利にあずかっています。さらに言えば、主キリスト・イエスの復活にあずかった者として、主の昇天、神の右に座すキリストと共に、そのキリストの中にあるわけです。ですからキリストにある人は、復活の勝利にあずかり、主の栄光にもあずかりはじめています。エフェソの信徒への手紙には「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェ2・6)とあります。
罪に定められる、つまり有罪判決を受けるのと、「主イエス・キリストにあって罪に定められることがない」のとでは、ものすごい違いがあります。有罪判決を受けたら、神と共にいられません。人とも共に生きられない、罪に定められるということは自分として生きてはいけないということでしょう。しかし「主イエス・キリストにあって罪に定められることはない」というのは、キリストの復活の命にあずかり、キリストと共に天の王座の生活、つまり栄光のすがたにあずかり始めているというのです。天と地ほどの違いと言いますが、この違いはもっと大きいでしょう、滅びにおちるのと栄光に挙げられる違い、違いは一点にかかっています。「キリスト・イエスにある」かどうかです。「キリスト・イエスにある者にされました」。キリスト者とされたことの大きな恵みに感謝したいと思います。
天の父なる神様、復活節第二主日の礼拝日に、あなたが死人の中から甦らせ、罪と死に打ち勝たれたキリスト・イエスを覚え、その主イエス・キリストにあるものとされた恵みを戴きましたことを感謝いたします。主キリスト・イエスにある者は、決して罪に定められることはないとの御言葉、またそのためにどれほどの愛と恵みの働きがあったことかを覚えて、御名を讃美いたします。新しい一週間、復活なさり、日々共にいてくださる活ける主キリストに従い、あなたの御栄光を顕わすための信仰の歩みをしたく願います。御霊の注ぎを受けて、信仰と希望と愛に生きることができますように、主にあるすべての兄弟姉妹を導いてください。活ける復活の主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

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