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礼拝説教

礼拝説教

説教 「来なさい。そうすれば分かる」長山 信夫牧師
           
ヨハネによる福音書1章35‐51節

 日本基督教団信仰告白は、最初に聖書についての信仰をこう言い表しています。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」
聖書は聖霊によって記され、聖霊はキリストを証ししており、キリストは福音の真理を示しているのだと順序を追ってわたしたちの信仰を告白しています。

「キリストは革命家だ」と主張して暴力を正当化しようとした人々がいました。しかし、キリストは福音の真理と結びついているのであって、革命と結びついているのではありません。「聖霊は風だ」と主張して、何を語っても許されると主張した人がいます。しかし、聖霊はわたしたちの勝手を正当化する道具ではありません。聖霊はキリストを証ししているのです。

 日本基督教団信仰告白は聖書を読み解くときにも大切な解釈原理を示しています。
ヨハネによる福音書1章はこの大切な事柄を明確に語っています。聖霊とキリストとの関係については32-34節にこう記します。
「そしてヨハネは証しした。『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。』」

ヨハネをメシアではないかと期待して訪ねてくる人々に彼は語ります。自分の後から来る方がメシアであって、自分はそうではない。自分はその方の履物の紐を解く資格もない。
しかし、最下層の奴隷であっても主人を知っているに違いありません。ヨハネはさらに語ります。自分はその方を知らないし、あなたがたも知らない(26節参照)。誰も知らない。完全否定です。それではなぜ、ヨハネはキリストの証人となれたのでしょうか。

聖霊が鳩のように天から下ってキリストの上にとどまるのを見たからだ、と証言しています。水で洗礼を授けるために自分を遣わしてくださった方が、そのようにすでに教えてくださっていた(33節)、とも言っています。自分が水で悔い改めの洗礼を授けているのは、実はこの方に洗礼を授けるためであったのだと語っています。神のご計画に導かれていることに深い感謝を覚えたことでしょう。

 キリストと福音の関係についても、ヨハネが、イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)、イエスを見つめて「見よ、神の小羊だ」(35節)と証言していることからも明白です。神の小羊とは、神が与えてくださった小羊という意味です。悔い改める民のために神ご自身が犠牲の羊を用意して与えてくださった。この犠牲の小羊によってわたしたちの罪は赦され、救われた。これこそ福音です。キリストと福音とは切り離せない本質的関係です。

わたしたちは改めて力強く信仰告白をいたしましょう。
イエスは「聖霊によって洗礼を授ける人である」とヨハネは重要な証言をしています。
今日の御言葉は、わたしたちの受けた水と霊による洗礼について大きな示唆をあたえてくれています。

イエスは受洗後次々と弟子を迎えます。アンデレと名前が記されていないもう一人の弟子、そしてシモン、フィリポとナタナエルの召命です。
アンデレともう一人の人はバプテスマのヨハネの弟子でした。その日も彼らは共にいました。歩いておられるヨハネは見つけ、じっと見つめて「見よ、神の小羊だ」と叫んだのです。大声であったのか小声でつぶやいたのかはわかりません。洗礼を受けるためにヨハネのもとに近づいてこられた時とは違って、偶然のことであったのです。イエスが声をかけて、その日にイエスの留まっているところに泊り、そのままイエスの弟子となったのです。「何を求めているのか」と主は語りかけられたのですが、二人の答えは「どこに泊まっておられるのですか」という頓珍漢なものでした。それでもイエスは「来てみなさい。そうすれば分かる」とご自分のところへと招いてくださいました。

 わたしには思い当たる経験があります。高校3年生の夏、通っていた教会の牧師の勧めで池の平で行われた3泊4日の献身キャンプに参加しました。最後の夜、献身しようと思っている人は牧師のところにくるようにとのアナウンスがありました。同室の参加者は献身する決心をすでに固めていましたが、牧師のもとへ行く勇気が出ず、わたしに一緒に行って欲しいと求めてきました。キャンプで初めて会った人でしたが一緒に担当の牧師のところに行きました。二人とも献身するのだと勘違いされ、とても喜んでくれました。次の日の朝の礼拝で7人の献身者の中にわたしも加わっていたのです。
伝道者になってからつくづく思います。神様の導きであったと。高校2年のペンテコステに受洗しましたがそれも牧師の勧めがあったにすぎませんでした。でもその時受洗していなければ、1年半後の神学校受験資格すらなかったのです。

 次はシモンの召命です。兄弟であるシモンにメシアに出会ったことをアンデレは伝えます。そしてすぐにイエスのもとに連れて行きました。
「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする』」と言われた(42節)のです。シモンはイエスのもとに連れていかれただけです。見つめたのはイエスです。その時、シモンにペトロと命名し、教会の岩の使命を与えられたのです。シモンは何も語っていません。

 フィリポの場合はさらに簡略です。イエスはフィリポに出会って「わたしに従いなさい」と告げられただけです。
そのフィリポはナタナエルに出会って、「来てみなさい」と彼をイエスのもとに連れていきます。ナタナエルはイエスに何の関心も示さず、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とつぶやきます。イエスのところに向かうと、イエスの方から声がかかり、ナタナエルは自分のことを以前から深く知っているイエスに出会うのです。

 ヨハネによる福音書15章16,17節にこうあります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼と言われます。悔い改めた後さらに過ちを犯さないように厳しい生活が弟子たちを待っています。それ自体は素晴らしい禁欲的修行の生活だと思います。ですからヨハネのもとには多くの弟子たちがその後も集まりました。

イエスに従う道はそれとは異なります。罪の自覚の深さです。自分の力で乗り越えられるような罪ではありません。神の子がご自分の命を犠牲にして初めて赦される深い罪なのです。イエスに従う道は幼子さえ安心して歩むことのできる整えられた道です。

 今年は大量の雪が日本海側に積もりました。数えきれない車両が行く手を阻まれ身動きできなくなりました。救助隊が出動し大きなトラックも小さな乗用車も前進できるように道路の雪が取り除かれました。スコップで一台ずつ、タイヤひとつずつ雪を丁寧に取り除く救助隊員の姿に感動しました。二次被害が起こらないように願いました。何日か後に無事解放され、今は全国各地を走り回っていることでしょう。イエスに従う道は、神に仕え人に仕える十字架の道ですが、すでに主イエスが歩まれ整えてくださっている道です。主イエスは一人一人のことをよく知っていてくださり、たずねてくださり、共に歩んでくださるのです。

「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」
これも日本基督教団信仰告白の言葉です。イエス・キリストは聖霊と共に働いてわたしたちを神の人として造り変えてくださるのです。わたしたちの力ではなく、神の力です。

<祈り> 
天の父なる神様、主イエスに導かれ、み旨に適う道を一人一人に整えてくださることを心から感謝します。行く手の見えないわたしたちの人生ですが、インマヌエルの主の手に引かれていることを覚え、感謝と喜びをもって幼子のように安心して前進していくことができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
 

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