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礼拝説教

礼拝説教

説教「主イエスの終わりなき支配」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
    
  ルカによる福音書1章26‐33節

 待降節第二主日に当たり、乙女マリアに与えられた御使いの知らせの御言葉からクリスマスの意義を受け取りたいと思います。天使ガブリエルの言葉は、クリスマスの福音を鮮やかに伝えて、初代教会の信仰の中に響き続けました。

 まずクリスマスに誕生する幼子の「名前」が告げられています。「マリア、恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と言います。マタイによる福音書では、ルカと違って、御使いが現れたのはマリアに対してでなく、ヨセフの夢の中であったと言われています。ほかにも詳細に検討すれば、二つの福音書の中にはいくつも違いがあるのを見い出すでしょう。しかし今朝はクリスマスの約束として何が重要か注目すると、マリアにかあるいはヨセフにかは別として、どちらにしてもクリスマスは御使いが告知し、御使いはイエスと言う名を告げたと言います。クリスマスは一人の幼子の誕生、つまりマリアやヨセフをはじめさまざまな人間が生き、私たちも生きているこの世界、この歴史の中に起きた幼子の誕生の出来事でした。しかしそれは御使いの告知によって知らされなければならなかった、御使いが関与することで知ることができた神の出来事でした。

 その人のことはイエスという名によって示されました。今朝の御言葉から私たちは「イエス」という名を特別の名として重んじ、畏敬の思いをもって呼ぶ名とする、そういうクリスマスの出来事を思います。クリスマスにはじまる主イエスの人生を思いますと、重大な時がいくつもあります。例えば、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、聖霊の注ぎを受けて、「これはわたしの愛する子、心に適う者」と言われた時も、また十字架に架けられ苦難の極みにあって死んだときも、そして三日目に復活したときも重大な時でした。しかしクリスマスにおける誕生の時も重大な時であり、そのときはイエスと名付けられた時でした。クリスマスは「イエスという名のお方」が神によって誕生した日です。それで初期キリスト教会は、「イエスの御名にひざまずく」(フィリ2・10)と言いました。当時の讃美歌で歌ったわけです。イエスの誕生と十字架と復活を語りながら、「イエスの名」を「あらゆる名にまさる名」と言い、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてイエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」と歌いました。イエスという名は固有名詞です。「キリスト」や「主」、「神の子」、あるいは「神の言葉」、「王」、「羊飼い」などは普通名詞です。それらが主イエスについて言われたとき、それは称号になって、キリストであるイエス、主であるイエスを意味します。

称号はイエスの働きを意味します。イエスと呼ばれるお方を、その方が神の子であり、まことの羊飼いであり、王であり、祭司であると説明します。しかしイエスという名は、そうした色々な働きを意味する称号で呼ばれる当の本人、当のイエス様御自身を呼ぶ名です。イエスという名を畏敬の思いをもって重んじることは、その名で呼ばれる方御自身を畏敬の思いをもって重んじることです。そしてその名を呼ぶことです。キリスト教信仰はイエスというお方を重んじ、この方をさまざまな称号で呼び、この方を主と信じ、重んじるところに成立します。イエスとい名を重んじることは、イエス様を重んじること、そしてイエス様を重んじるとは、主イエスを呼ぶこと、悩みの日に我を呼べと言われた神を呼ぶように、主イエスを呼ぶことです。そして主イエスを呼ぶとは、眼前に見えるかのように主イエスを仰いで、この方と共にある幸いを思うことです。それがクリスマスに当たって重要なことです。

御使いの約束の中で、その主イエスがどう言われているかが、次の問題です。御使いは二重の表現で語っています。一つはその子は「偉大な人」になるであり、もう一つは「いと高き方の子と言われる」です。「偉大」なのは、人間として偉大で、「父ダビデの王座」を与えられると言われます。同時に「いと高き方の子と言われる」とありますが、この「いと高き方」は当時のヘレニズム世界の言語表現として「神」のことを意味しています。ルカはこの表現を好んでようで、1章35節にもまた76節にも用いられています。ですから、主イエスはダビデの子孫として生まれ、かつ「神の子」であると言われているわけで、「神の子と呼ばれる」と言いました。

「王座に着く」のは、ダビデの子孫として偉大な王になることですが、「神の子と呼ばれる」という表現は旧約聖書では、王の即位式を意味しています。ルカによる福音書は、王の即位式の表現でクリスマスを報告したことになります。それで「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われるわけです。つまりイエスは王なのです。「神の子と呼ばれる」のも王の位に着くことと結びついています。ルカによる福音書は「王」の誕生、「支配する方」の誕生としてクリスマスを約束しています。

 幼子イエスは神から誕生した王です。神の憐みをもって統治する王と言ってもよいでしょう。イエスという名に対する畏敬の思いは、この貧しく生まれ、低く生まれた方が、神から生まれた王であって、「憐みの統治」をなさる方だというのです。御使いのこの告知を受けて、それに応えたのがマリアの讃歌ですが、その中でも主イエスが王であることが歌われています。「その御名は尊く、その憐みは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」(1・49-50)と歌われます。憐れみ深い王を歌うわけです。さらに「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(1・51-53)と歌われます。憐みの王として力を振るうイエスを歌うわけです。

「王」とか「統治」とか「支配」とかは私たちの現実生活にはあまり関係がないように思われるかも知れません。私たちは誰からも統治されたり、支配されてはいないと思われるからです。しかし実際にはそうは言えないのではないでしょうか。自分たちの選挙で選んだ政党が総理大臣を決め、内閣を組閣し、国民を統治しています。あるいはまた諸官庁の役人を含んだ統治機構によって、私たちは支配されています。それで思うようにはいかず、願い通りにならない現実もあるわけです。

しかし言えることは、それらの支配によって私たちの全身全霊が支配されているわけではありません。私たちの魂は支配されていません。それでは魂は何に支配されているでしょうか。自分で自分を統治していると言うかもしれません。しかしそれで本当に自由でしょうか。罪の支配や悪の支配はないでしょうか。キリスト信仰者は、もっとも根本のところで神からの憐みの統治である主イエスによる恵みの支配のもとにいます。

あるいはまた、私たちはもう三年もの間、コロナの感染に圧迫され続け、あるいはロシアのウクライナ侵略の悲惨な戦争を止めることもできず、世界中がその影響下に置かれています。エネルギーをはじめ、あらゆる物価が高騰し、世界は一体どうなるのか不安の中に置かれているかもしれません。まるで何か不合理な力が世界を覆っているかのようです。

しかしアドベントの御使いの言葉は、そうは言わないのです。神はイエスを王座に着け、イエスが永遠にヤコブの家つまりイスラエル、神の民を治めます。信仰者の王はイエスだと言います。主イエスにあっては不合理な力の支配ではなく、また人間の我儘勝手な支配でもない。神の憐みの支配があります。私たちはイエスを王とすることによって、プーチンに支配されません。国と力と栄えは神のものであり、私たちを統治しておられるのは、憐みの主イエスです。主イエスの憐みの支配のもとに神の義と平安の支配があります。その中で主御自身が仕えて下さって、私たちは生かされています。そしてその主の憐みの支配は永遠に続き、終わることはないと言われています。それがアドベントの信仰です。

「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(33節)。アドベントの御使いの言葉は、王であるイエスの憐みの支配が永遠に続くと言い、終わることがないと言います。この個所は聖書の中でも重大な箇所になりました。教会はこの言葉を、やがてニカイア信条の中に取り入れました。使徒信条では主イエスに対する信仰表現は、「かしこより来たりて生けるものと死ねるものとを裁きたまわん」で終ります。ニカイア信条はそれに加えて、この個所に従って「その支配は終わることがない」と告白して締めくくります。主イエスの憐みの支配は終わることがありません。永遠に主は支配なさり、すべての時間・空間を御自分のもとに置かれます。主イエスの支配は「終わらない」ということは、「中断される」こともないでしょう。主の憐みの支配のない時間・空間はありません。永遠のことが主イエスにおいて定まりました。それが時間を生きる者に慰めと勇気を与えます。眼前に見えるがごとく主イエスを仰ぐとき、私たちは主イエスの終わることのない憐みの支配を讃えます。

祈りましょう。
聖なる父である神様、アドベントの礼拝に、会堂で、またオンラインで参加することができ、感謝致します。今朝はあなたが世に遣わされた主イエスの来臨を覚え、特にその御名の尊さとその支配が終わることのないことを聞くことができ、感謝いたします。私たちの信仰生活がイエスの御名を呼び、イエスの御名に服し、その憐みの統治のもとにあり続けることができますように。またその支配が終わることのないことを信じて、平安と喜びのうちに、今日も、また明日もあることができますように。種々の試練に直面してなお、生ける神の御力に希望をいだき、主にある喜びのうちに前進し、主の福音を証することができますように。
あらゆる名にまさる名、イエス・キリストの御名によって、祈り、願います。アーメン。

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