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礼拝説教

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説教 「神からの恵み」 長山 道牧師

ルカによる福音書1章26‐28節

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。天使はマリアにこう告げました。マリアに向かって天使が「恵まれた方」と呼びかけることに、わたくしたちは特に違和感を覚えないのではないでしょうか。マリアは、主イエスの母となるという特別な務めのために神から選ばれた存在で、神から選ばれるということは恵まれている しるしだと、ごく自然に考えているのかもしれません。

クリスマスには多くの教会学校やキリスト教主義の幼稚園で降誕劇をしてきました。マリアの役は憧れの的です。マリアは美しくて、優しくて、素敵な女性だという意味で、恵まれているイメージがあるかもしれません。また、このときマリアは子どもの誕生を告げられました。子どもが生まれることは普通嬉しいことですから、これも恵みとして受け止められているかもしれません。

 しかしよく考えてみますと、マリアはこのときまだヨセフと婚約中でした。この時代のこの地方の婚約というのは、たいてい家族同士のあいだで、女性がまだ相当若いとき、ほんの少女の頃に取り決められたのだそうです。そしておそらくマリアはこのときまだ12〜13歳だったとも言われます。もしそうなら、自分自身がまだ子どもみたいなものですから、きっと、「結婚したら将来はお母さんになりたいな」くらいは思っていたかもしれませんが、今すぐにでも子どもが欲しいとはまだ願っていなかったのではないでしょうか。おそらくもっと違った願いをいろいろ抱いていたのではないかと思います。しかしマリアの思う通りには、もういかなくなってしまいました。

 まだ婚約者のヨセフと一緒に暮らしてもいないのに、子どもを身ごもるなどということは、当時なら誰も喜ばなかったのではないでしょうか。無実であるにもかかわらず、不貞を疑われることなど、誰も望まないのではないでしょうか。天使がマリアに告げたのは、恵みどころか、とんでもない告知でした。

 天使はまた続けてこう預言しました。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。自分の子どもが偉大な人になるというのは、親にとって確かに喜ばしいことであり、恵みでしょう。しかし、主イエスが偉大な人となり、いと高き方の子と言われ、王となられたのは、生まれて成長するにつれて人並み外れて優れていったので、やがて神と崇められるようにまでなっていったというようなことではありませんでした。苦しみを受け、十字架にかけられて死ぬという出来事を通してのことでした。マリア自身はこのとき、生まれてくる子どもがこれほどまでに過酷な運命を担っているということまではわからなかったでしょう。しかし神は、このマリアから生まれる御子イエスが、苦しみを受けて十字架上で殺されることをよくご承知でいて、マリアにこの子をお与えになったのでした。

 主イエスの母となるという困難な使命のために、神がマリアを選ばれたということはしかし、マリアがそれを立派に成し遂げられる優れた人間だったからというわけではなかったと思います。わたくしたちはマリアというと普通、慈愛に満ちた思慮深い、外見も内面も美しい女性を思い浮かべたりしますし、キリスト者ではない人でも、「マリアさま」などと呼んだりするのを聞くことがあります。けれども、実際のマリアは、先ほど申し上げましたように、おそらくまだ12〜13歳の女の子にすぎなかったのです。美しいとも賢いとも、聖書には書かれていません。ごく普通の女の子だったのでしょう。また、神から恵みをいただいたと言っても、そこで突然神の人となって、神の子を宿すということや、その子が自分のもとを離れて家を出て、苦しみを受け、死ぬという、その深い悲しみや苦しみに耐える立派な人格ができあがったというわけでもないのです。

そうやってわたくしたちからは遠くて無縁な立派な素敵な人になったのではなくて、あくまでも、ひとりの平凡な母親でした。ですから、自分の子イエスの真理を十分にわきまえていなくて、イエスにむしろ叱られるようなことさえありました。ごく普通の女の子の幸せな婚約時代をぶち壊しにするような仕方で起こった思いがけない妊娠と出産、それがマリアの身に起こったアドヴェントとクリスマスの出来事でした。

その後聖書にヨセフが登場しないことから言って、マリアはヨセフに若くして先立たれたと考えられています。さらに我が子の受難と十字架での死、これらはみな、普通に考えれば苦しみではないでしょうか。それよりもっとごく平凡な家庭生活を、たいていは望むものではないでしょうか。

 こうして考えてみますと、「おめでとう、恵まれた方」と天使の挨拶を受けたときにマリアが戸惑い、何のことかと考え込んだことや、「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」と尋ねたことは、無理もないことだと思います。
このマリアの問いに対する答えは、「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というものでした。そして最後に、「神にできないことは何一つない」と天使は言いました。

「神にできないことは何一つない」。こういう言葉には、わたくしたちはあまり心が留まらないかもしれません。神は全能であるなどということは当たり前ではないかと思っているからです。しかしまた、わたくしたちは、神が本当に全能ならば、こんな問題が起こるはずはないとか、わたしの祈りを聞いてくださるはずではないかとも思うのではないでしょうか。

マリアは、こう言うこともできたかもしれません。「おできにならないことは何一つないのでしたら、わたしをこんな目に遭わせないで、もっと別のやり方をしてください」。ところが、「神にできないことは何一つない」ということは、わたくしたちと何ら変わるところのないひとりの人間であるマリアが選ばれて、それほどに低く身を屈めて神がわたくしたちのところへ来てくださるという意外な仕方で起こりました。

 マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。聖霊に包まれた人には、どんなに困難に思われても神に備えられた道を行くことにこそ幸いがあるという信頼があります。マリアはまさにキリストのために苦しみに与りました。しかしそれ以上に、その苦しみを通してこそ実現する恵みに与りました。

恵みとは、単に苦しみがないことではありませんでした。美しいこと、子宝に恵まれること、不貞を疑われないこと、夫が長寿であること、子どもが大物に成長することでもありませんでした。神がマリアを用いて、御子イエス・キリストをこの世に与え、主イエス・キリストはわたくしたちすべてのために、十字架にかかって死に、そして復活されるという、マリア一人の人生を超えた、世界大の歴史を貫く壮大な恵みでした。

 これは実は、マリアだけの苦しみ、マリアだけの恵みにとどまるものではありませんでした。わたくしたちはその十字架と復活の力により、罪赦され、こうして教会へと招かれています。キリストの苦しみに与る幸いがあること、苦しみの中に働く恵みと感謝があることを知っています。そして神はさらにわたくしたちをも用いてくださって、まだ神を知らない多くの人たちを信仰へと導かれます。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」。この言葉はマリアだけでなく、今朝わたくしたちにも向けられています。

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