礼拝説教
7月7日礼拝説教
説教「神の僕として行動するとは」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
ペトロの手紙Ⅰ 2章13~17節
8月になると、日本では第二次世界大戦での大きな犠牲を払って受け取った平和や民主主義、そして自由の大切さについて考えさせれます。ですが、人類の平和や自由が、実は聖書が伝える福音と深く関係し、そこに根差していることは、案外、日本では思いいたらないのではないでしょうか。まことの自由とは何か、それは聖書の重大なテーマです。今朝の箇所はそれが語られている一つの箇所と言ってよいでしょう。
16節に「自由な人として生活しなさい」とあります。そして「その自由を、悪事を覆い隠す手立てとせず、神の僕として行動しなさい」と言います。「悪事を覆い隠す」、言うならば悪をなす自由が、本当の自由ではありません。そうでなく「神の僕として行動しなさい」と言います。「僕」とあるのは、はっきり言うと「奴隷」という言葉ですから、一見して自由とは反対に見えます。「自由な人」は「奴隷」ではないと誰もが思うのではないでしょうか。しかし自由だ自由だといくら言っても「悪事」から身を離すことができなければ、それは「悪の奴隷」になっていることではないでしょうか。本当の自由は、悪の奴隷になるのでなく、「神の僕・神の奴隷」になって行動することだと聖書は語ります。
そう言えるのは、もちろん神がいかなるお方であるかによるでしょう。本当の自由は、罪の支配や悪のしがらみから、あるいは自己中心やよこしまな欲望から解き放たれていなければ、自由とは言えません。神は御自分に属する者、その僕をあらゆる不当な圧迫や不自由から、悪の支配や罪の力、死の脅かしから解き放ってくださいます。主イエス・キリストにあって、神の憐みによる救いの御業をなさった神、今日も復活の主イエスにあって救いの力を行使してくださる神を知る時、その憐みと愛を知る時、神に属し、神のものとされた「神の僕」が、実はどれだけ自由な人であるかが、分かってくるのではないでしょうか。ですから、キリストにおける神の愛の御業によって罪からも悪からも、そして死の支配からも解き放たれ、神に属する者とされ、神の子とされ、救いへと解放されている、それが真に自由な人にするでしょう。
他の何ものの僕でもなく、ただもっぱら神のみの僕、御自身まことに自由なお方であって、その憐れみと恵みによってもろもろの支配から解き放ってくださる慈しみ深き神の僕である時、私たちは自由な人にされていると言うべきではないでしょうか。
それでは生れながらに人間は自由ではないのでしょか。ペトロの手紙は、「先祖伝来のむなしい生活から贖われて」キリスト者とされたと言います。主イエス・キリストの贖いによる命なしには、「むなしい生活」があったのです。「むなしい生活」が自由な生活であるわけはありません。主イエス・キリストにおける神の赦しと救いの御業によって、自由にされました。キリストの尊い血による贖いを受けて、キリストのものとされ、神に属する者とされ、人ははじめて何ものからも自由で、他者の脅かしからも、自分自身の勝手な縛りからも自由にされたのです。
その自由な人の生活として、今朝の箇所は一つの具体的な問題を挙げています。それは、人間による人間の支配に対してどう対処するかという問題です。これは現代の私たちの問いでもあるでしょう。キリスト者は一体、国家の支配、そしてその支配者に対して、どのように対したらいのでしょうか。この手紙の時代で言いますと、ローマ帝国の時代ですから、ローマ皇帝や皇帝が派遣した地方総督や長官に対して、どう対処するかが問題でした。神によって自由にされたキリスト者は、国や政治の支配の中で、どう生きるのでしょうか。
ペトロが告げる回答は、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と言います。「統治者としての皇帝であろうと、皇帝が派遣した総督であろと、服従しなさい」とあります。そうすることが「善を行う」ことでもあると言われます。
それではキリスト教的な政治の姿勢は、いつでも現状の支配にもっぱら従う服従の態度で、極め付きの保守主義が勧められていることになるのでしょうか。皇帝の支配については、すでに主イエス御自身が語られた言葉がありました。主イエスを陥れようとする者たちが来て、皇帝に税金をおさめてよいかと問いました。そのとき主イエスがお答えになった言葉があります。御自分を試そうとする人々に対して主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22・21)と言われたのです。ペトロの耳には主が語ったこの御言葉はずっと残り続けたと思われます。それでペトロは、「皇帝に従いなさい」と語ると共に、それは「主のために」することで、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と語るのです。
ですからキリスト者は「皇帝に従い」ますが、それは皇帝のためにではありません。そうでなく「主のために」です。「主のために」とは、「神の御心に従って」ということ、「神の御意志に従って」ということです。当時のローマ帝国では、「皇帝崇拝」は、ほとんど宗教的なものになっていました。しかしペトロの手紙は、皇帝やその支配の形は「人間の立てた制度」の一つにすぎないと言います。神が立てた制度ではないのです。人間の立てた制度であれば、永遠のものではなく、変化が可能でしょう。無くなることもあり得るでしょう。しかしその制度の中で「悪を行なう者が処罰され、善を行なう者がほめられる」ことがなされていれば、その制度に従うことは、神の御心にかない、善を行うことになります。それで「主のために」従いなさいと語ったのです。
「主のために」ということは、「神の御心」「神の御意志」に服することと理解しますと、神の御意志を汲んで人間の立てた制度に従う。そのようにして「神の僕」として行動するわけです。そういう行動が自由にされた人の姿であると言っているわけです。
今朝の御言葉は、「神の僕」として行動することこそ、その人が真実な意味で自由な人として生きる道であることを語っています。そしてその具体的な例として、皇帝や皇帝から派遣された総督に対し、どうふるまうかという当時の難問に答えているわけです。現代もウクライナにおけるロシアの侵略問題やガザにおけるイスラエルとハマスの争いなど、それぞれの時代における人間の支配による混乱は、悲劇を生み、苦難をもたらします。その中で、唯一、神のみを神とするキリスト教は、どう自由にされて生きるのかです。聖書は神以外のすべてを否定して、あとは呪うというのではありません。神が創造してくださった世界を肯定し、人間が作ったはなはだ問題のある制度に対しても、神の御意志に従って生きよと語ります。このことは、この段落の最後の一節にも興味深い仕方で示されています。
段落の最後には「すべての人を敬いなさい」とあります。キリスト者でない人にも敬意を払う、リスペクトを持つのが、キリスト者の生き方です。すべての人を敬うことはもちろん特定民族の壁を越えます。キリスト者は民族主義者ではありません。しかしその上で「兄弟を愛しなさい」とあります。「兄弟」とは主イエス・キリストにあって兄弟姉妹にされた教会の者たちです。キリストによる贖いを受けて、共に父なる神の子とされたました。その同じ信仰のキリスト者たちを「愛しなさい」と言います。それは「敬い」以上のことです。愛はときには犠牲を払います。主イエスは兄弟のために命を捨てる愛をお語りになりました。しかしキリスト者の生き方は、さらにもう一段高く昇り、「神を畏れなさい」とあります。すべての人を敬い、兄弟を愛し、そして「神を畏れなさい」です。「畏れる」のは、唯一、神のみです。三位一体にいます唯一の神、並ぶものなき神、その「神を畏れよ」。すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、そして唯一、神を畏れよ、ただ神のみを神として礼拝します。そこに本当の自由の姿があるわけ、礼拝は真の自由の発信基地と言えるでしょう。
そこから見て皇帝に対してはどうでしょうか。「皇帝を敬いなさい」と言われます。皇帝は畏れる相手ではありません。神と並ぶものではありません。皇帝を愛しなさいとも言われません。ただ敬う、リスペクトを払う。それはすべての人を敬うようにです。この短い一節に神の僕とされたキリスト者の自由の表現が、痛烈な仕方で表現されていると言えるのではないでしょうか。「神の僕」とされた者が真に自由な人なのだということはあらゆる場面で、政治の場面でも、表現されるものです。信仰による自由を生きることを身に着けていきたいものです。
憐れみに富みたもう天の父なる神様、8月に入って、平和と共に真の自由のあり方に思いを向けさせられます。あなたを唯一、われらの主なる神とあがめ、畏れ、真実に礼拝することができますよう、導き、助けてください。今日世界は諸地域において危険な状況に直面しています。しかし私どもあなたの救いと恵みの支配とを信じて、主にあってまことの平和と自由を生きることができますように。あなたを真実に畏れ、信頼し、真の礼拝をささげて、世の人々を招くことができますように。また世界のどの地域でも教会での礼拝があなたの平和と自由を世に発信する力強い基地となることがきますように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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