教会はあなたのご来会をいつでも歓迎いたします!

礼拝説教

5月4日礼拝説教

説教「あなた方の希望とは何か」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
               ペトロの手紙Ⅰ 3章13~17節

 信仰生活で与えられる賜物は、「信仰と希望と愛」と言われます。信仰と「愛」は密接な関係にあって、主イエス・キリストにより神を信じる者は、神の恵みのあふれるばかりの愛を知り、神を愛する者となり、また他の人々にも愛をもって対応することが勧められます。それでは信仰と「希望」の関係はどうでしょうか。もう少し明らかにされる必要があるのではないでしょうか。

 ペトロの手紙一は、信仰と特に希望の関係に注意を向けて語っています。この手紙は、キリスト者たちがこの世にあって各地に寄留し、仮住まいの中にあり、今しばらくの間、試練の中にあることをよく知って書かれているからです。世の試練の中で重大なことは、その中で恐れに捉えられないことです。そして希望を失うことなく、信仰の歩みを続けていくことでしょう。この手紙の著者とされるペトロは、恐れに捉えられて信仰の道を逸らさせることがどういうことか、自分の経験からよく知っていました。主イエスが十字架におかかりになる前夜、彼は人々を恐れて、「私は主イエスを知らない」と何度も言って、その惨めさをよく知っていました。それで女性たちの信仰について語ったときにも、「何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」(3・6)と語りました。主イエス・キリストを信じ、キリストによって神を信じることは、何事も恐れず、毅然とした信仰の歩みになります。それがまた希望と密接に関係しています。

 今朝の箇所では、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」と言われます。そしてそれが「希望」と関係しているので、続いて「希望の説明」を求められたら、いつでも弁明できるように、「希望の弁明」に備えなさいと語っています。

 それでは信仰と希望の関係はどう語られているでしょうか。キリスト者の希望は、ここでは、たとえば受験に成功するとか、よい就職とか、大金を得るとかいった、何か特定の目標を達成することとしては記されていません。この手紙の冒頭には、キリスト者というのは「新たに生まれさせられた人」で、キリストの復活によって「生き生きとした希望を与えられた人」(1・3)と言われます。それがこの手紙で希望が語られる最初でした。そして「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神」に「信仰と希望」はかけられている(1・21)と語られます。それが二度目です。そして今朝の箇所では、「人々を恐れたり、心を乱さないように」、そして「心の中でキリストを主とあがめなさい」と言われ、そこから「希望の説明ができるように」と、希望が三度目に語られています。

 希望に繋がっていく直前の言葉は「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」です。この言葉は、どこでも言われる言葉のようですが、実は、イザヤ書から引用された言葉です。イザヤ書8章12節、「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」とあります。「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。キリストを主とあがめなさい」とよく読みくらべてみますと、同じ内容であるのが分かります。

 預言者イザヤの方は、この言葉が語られた具体的な状況も明らかに分かります。それは、アッシリアの王センナケリブの軍勢が紀元前700年頃、バビロンを滅ぼし、イスラエルの北王朝のサマリアを滅ぼし、ユダ、つまりエルサレムが都であった南ユダ国にも攻め上ってきときの言葉でした。突然の大国の出現と侵略の恐怖のあまり、ユダ国も含めて、色々な小国が同盟を結び合いました。そういう国際政治の恐怖のなかです。アッシリアの軍勢がエルサレムを囲み、時の王ヒゼキアは宮廷長や書記官、祭司の長老に荒布をまとわせて、預言者イザヤのもとにつかわし、民のために祈ってほしいと願いました。列王記下19章に記されています。そのときのイザヤの言葉が、「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前に
 
 そしてエルサレムを囲んだアッシリア軍は一夜のうちに18万5千人を失って、退却したと言われます。「朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」。列王記下19章はそう伝えます。アッシリア軍の中に致命的な感染症が急激に進行し、エルサレムはかろうじて窮地を脱しました。この出来事の中で語られた言葉が、「たとえ敵軍であれ人間を恐れてはならない。心を乱してはならない。そうでなく万軍の主のみを聖なる方とせよ」。初代教会は主イエス・キリストを「主」として信じ、あがめたとき、このときの記憶を引き継いだわけです。そして信仰と希望とは、神にかかっていると言ったのです。

 ですから希望とは何でしょうか。それは万軍の主である神が生きておられる、その生ける神が主イエス・キリストにあって働いてくださる、その主なる神を崇め、聖なる方、まことなる神と信じる。その信仰が希望を生みます。
それでペトロの手紙は、この世の寄留者であり、仮住まいにいるキリスト者たちがいま置かれている試練の中で、どう生きたらよいか記したわけです。「善に熱心であるように」、「義のために苦しみを受けても、幸いとするように」と語り、そして「人々を恐れたり、心を乱してはいけない」、「心の中でキリストを主とあがめなさい」と言うわけです。「キリストを主とあがめる」とき、「万軍の主のみを聖なる方とする」わけです。それによって希望の中に置かれ、信仰による希望を生きることができます。

 イエス・キリストを「主」と「あがめる」とは、十字架に死に復活したイエス・キリストが「万軍の主」であるとあがめることです。復活のキリストが神の右に座し、神の大能を帯びた勝利のお方であり、あらゆる支配、権威、勢力、主権の上にあって、死んだ人にも生きている人にも「主」となられたと信じることです。「あがめる」というのは、「聖とする」という言葉です。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」とある「聖なる方とする」ことが「あがめること」です。それは主なるキリストが生きておられ、今日も偉大な御業、聖なる神の救いの働きをなしておられる方としてあがめることです。

「主とあがめる」ことは、「主を聖とする」「聖なる方とする」という言葉ですから、主の祈りの最初の祈りと同じです。「御名があがめられますように」は、「御名が聖とされますように」という言葉です。それは神がまことに神、聖なる神であり、聖なる神が全被造物によってあがめられるようにという祈りです。聖なる神は、生ける神、偉大な働きを今日もなしておられる神です。その神を崇め信じる。それが希望を持つことです。神が生きておられ、キリストにあって偉大な業を今日もなしている。だから人々を恐れず、心を乱さない。イエス・キリストを主とあがめ、毅然と信仰の生活を生きる。それが希望の姿です。

 ここには「希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とあります。キリスト者は信仰の証しをしますが、信仰の証しだけでなく、希望の証しもします。つまり他の人々と同じ環境、同じ状況に生きているとき、キリスト者はその信仰だけが目立つのではなく、希望に生きていることも周囲の人に気付かれて、その説明が求められる、その時に答えられるように備えていなさいというわけです。希望について説明を求められるということは、他方から言えば、同じ社会、同じ環境に生きている多くの人々が人生に見切りをつけ、この世の人生を諦めているということでしょう。その中でキリスト者たちが希望をもって生きているのが目立ち、不思議に思われるわけです。なぜ彼らは絶望しないのか、恐怖に捉えられないのか、人々を恐れないのか。心配や不安で心乱れないのか。喜んで生きているのか。なぜ忍耐できるのか。どうして毅然として生きているのか。人生に臆病でないのか。なぜ希望をもって生きているのか。

 そのように生きられる希望の説明があります。「心の中でキリストを主とあがめているから」です。私たちのために十字架に架かられた愛なる主イエス・キリストが万軍の主なる神として私たちのためにいてくださる。そのことを穏やかに、敬意をもって、正しい良心で弁明しなさいと聖書は言います。「キリストに結ばれたあなたがたの善い生活」をもって弁目しなさいと言われます。

天の父なる神様、「心の中でキリストを主とあがめなさい」との御言葉を聞くことができ感謝します。どんな時にも主イエス・キリストをこそ私たちの主、万軍の神と信じ、人々を恐れることも、心を乱すこともありませんように導いてください。信仰を証しするととともに、主にあって希望に生き続けることができますように。「キリストに結ばれた善い生活」を生きて、神様の御栄をあらわさせてください。特に今、試練の中に置かれている信仰の兄弟姉妹のうえに、神様の憐みと慰めが豊かにありますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

      400講壇白

       ー礼拝スケジュールへー

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional