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礼拝説教

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説教 「幸いなるかな、平和をつくり出す人」 近藤勝彦牧師

              マタイによる福音書5章9節

 日本基督教団の諸教会は、8月の第一主日を平和聖日として守っています。このことは、6日、9日の原爆記念日や15日の終戦記念日に合わせて、決して無意味なことではないと思われます。今朝はその平和聖日に当たりますので、主イエスの山上の説教の冒頭に記された一連の「幸いなるかな」の祝福の中から平和の御言葉を聞きたいと思います。

 学びます御言葉は、マタイによる福音書5章9節です。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とあります。「平和を実現する」とは、「平和をつくり出す」と訳すこともできますし、「平和を行う」「平和を遂行する」と訳してもよいでしょう。ただ、平和を受け身でも享受するだけでなく、積極的に平和を実現し、つくり出すことが言われていて、そのようにする人たちは幸いだ、神の子と呼ばれる、と言うのです。その意味はただ人々からそう呼ばれるというだけでなく、終りの時の審判にあたって、あなた方は神の子であると、神から言われることです。

「あなたは神の子だ」と言われるということは、それ以上の尊称が考えられないほどのことです。あなたは神の子とされているというのは、それ以上にない最高のことであって、あなたはまったき救いに入れられているということでもあります。救いを表す言葉には、色々あって、義とされる、聖化される、再生され、永遠の命に加えられるといった表現もあります。しかしそれらすべての表現は、あなたは神の子と呼ばれ、神の子である、神の子とされているということの中に含まれると言うことができます。

 「平和をつくり出す人々」が、なぜ「神の子」と呼ばれるのでしょうか。「神の子」であれば、当然、父である神との一致や対応の関係にあるわけです。子は父に対応しているわけで、父なる神に似ているわけです。「平和をつくり出す」「平和を打ち立てる」ことによって人間は神に似ると言うのです。そう言えるのは、神御自身が「平和の神」だからです。

 今朝は聖書の一節、マタイによる福音書5章9節に導かれています。この一節は、これだけでおそらく何回もの説教が可能であり、また必要な箇所でしょう。一節だけの短い聖句ですが、内容としては膨大な内容、偉大なことが詰まっています。その膨大な内容のすべては、この節の根本である、神御自身が平和の神でいらっしゃることに基づいています。

「平和をつくり出す」ということで、私たちは何を考えるでしょうか。世界における国と国の関係を考えるでしょうか。今日、アメリカと中国の緊迫した関係が語られ、相互に領事館を閉鎖し合って、再び冷戦が開始するのかと言われます。日本はその間でどこに立つかと言われます。当然、平和は国と国の平和でもあって、領土的な進出を執拗に企てる国家との間に平和を打ち立てるという問題は、きわめて困難な難問です。

しかし平和の難問はそれだけではありません。「平和」は、国と国との間だけでなく、一つの国の中にさまざまな地域や集団の間に軋轢や対立が起こります。国と東京都の間、県と市の間、一つの地域と他の地域の間に確執があります。医療と経済の間でもそうでしょう。コロナ感染対策をめぐって国中がかなりの紛糾状態にいます。

さらにはもっと身近に、平和を打ち立てる困難は、私たち自身とその周辺にもあるのではないでしょうか。家族関係の難しさに苦しんでいる人もいるでしょう。他者との間に平和を打ち立てられなくて悩んでいる人もいるのではないでしょうか。その上さらに自分自身の中で、平和をつくることができない場合も多いのです。

 平和を打ち立てるのを困難にしているのは、他者だけではありません。自分自身がその困難の原因であることが多いと言わなければなりません。何が問題なのでしょうか。一言で言えば罪です。人間の罪、そして私自身の罪です。それは自己中心と言ってもよいでしょう。自己中心でない国や民族はありません。自己中心でない人もいないでしょう。従って罪を免れている国も集団も地域も個人もありはしません。自己中心のその罪によって、平和をつくり出せるはずはありません。

 要するに、平和をつくり出すことの難しさは、政治や経済や医療や心理学の問題ではないのです。それらのどれもが平和を問題にするでしょうが、罪に目を塞いで平和を語っても、本当の問題の困難さに目をつむったままです。平和が困難である根本には罪の問題があるのですから、平和が国際連合の手に負えるはずがありません。精神医学の手にも負えないでしょう。問題は深く信仰の問題です。

人間は、神との平和を壊し、それによって他者との平和を壊し、自己中心になって真の自分を見失い、自分自身の平和を壊しています。政治学や経済学が扱える問題ではないわけです。学問というなら、神学の問題というほかないでしょう。神の問題だからです。「平和をつくり出す人は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」。ただ神だけが解決でき、解決してくださる問題だからです。

 山上の説教の中で「神の子」と言われるのは、9節の平和をつくり出す人々ですが、それ以外には5章の43節以下にも「神の子」が出てきます。そこでは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言うのです。そして「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われます。この箇所も併せて受け止めますと、「平和をつくり出す」ことは、「敵を愛する」、「愛敵」と結びついています。敵を愛することなしに平和をつくり出すことはできないのではないでしょうか。そして敵を愛する者が「天の父の子」、つまり「神の子」なのです。

「平和をつくり出す人々は幸いである」という御言葉は、私たちに色々と戸惑いを与えます。あるいはショックを与えます。一体、誰が平和をつくり出せるのかと思われます。人間と世界の現実には、平和は断念した方がよい場面が沢山あるのではないでしょうか。軍事大国化した国が、ずけずけと領内に押し込んでくるとき、一体、誰が平和をつくり出せるでしょうか。愛敵はむしろ危険なことではないでしょうか。こちらの誠意を一つも汲み取ろうとしない人間が世の中には結構います。そういう人とどう平和を造れと言うのでしょうか。どこまで赦したらよいのでしょうか。言いたいことは、誰にも山ほど出てくるのではないでしょうか。罪の状態のただなかでどう平和をつくり出すことができるのでしょうか。

平和は根本的には、罪がどう克服されるかという問題です。そしてそれをなし得るのはただ神のみです。イザヤは「あなたの神が王となられた」(イザ52・7)と告げて、それを告げることなしに平和を告げることはできないことを語っています。神が国々の王であり、私とあなたの王です。その神との平和、神との和解の中に生き、そして平和の神の働きを担う、それ以外に平和をつくり出すことはできないでしょう。平和をつくり出すには、神との平和に生き、神が王であることに従って行く、それが平和の根本です。

 「平和をつくり出す」という、同じこの言葉が、主イエスに用いられています。イエス・キリストが平和をつくり出しました。例えば、エフェソの信徒への手紙2章14節以下はこう言います。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。・・・キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」と言います。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。「平和をつくり出す」ことは、主イエス・キリストが十字架に御自身の血を流してなさったことです。ですから、キリストは「その十字架の血によって平和を打ち立てられました」(コロ1・20)とも言われます。

神はその御子、独り子であるイエス・キリストの十字架の血によって、私たちとの平和を打ち立ててくださいました。そのキリストによる神との平和の中に入れられて、私たちは平和の神の御意志に服従しなければなりません。服従することができます。それが今朝の御言葉の根本にあります。

私たちはただ主イエスのものとされて、神との間の平和に生きるものにされました。キリストの十字架の血によって平和を打ち立てる父の御意志に従うことができます。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。この御言葉は、私たちを十字架の主イエスに結びつけます。主イエスが与えてくださる神との平和にあずかり、神の平和意志に従っていく、それが平和をつくり出すということでしょう。平和をつくり出すことは、キリストの十字架の血によって生かされることにほかなりません。
 

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   「豊かに実る葡萄(まだ食べられません)」

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