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礼拝説教

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 説教 「新しい生き方とその根拠」 近藤 勝彦牧師

   エフェソの信徒への手紙4章25-32節

 人間は誰でも他の人と共に生きています。お互いの間で倫理的な生活を営んでいるわけです。しかしキリスト者はさらに根本のところで、神と共にある生活を生き、救いに入れられた者として生かされています。キリスト者とされ、救いにあずかったことは、神からのことですが、それが人々との生活の中に新しい生き方として現れるはずです。今朝の聖書の箇所はそういうキリスト者の新しい生き方を語っています。

 それが、四つの言葉で語られています。「偽りを捨てる」、「日が暮れるまで怒ったままでいない」、「盗みをしない」、「悪い言葉を口にしない」という四つの表現です。一見して、別段、新しい生き方というほどのものではないと思われるかもしれません。世界中のどこでも言われる道徳的なことが、統一性もなく、思いつくままに記されているように見えます。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません」とある個所など、エフェソの教会にはかつて泥棒だった人がいたのかと、驚いてしまうかもしれません。
しかし問題はこれらの生き方がどういう根拠から語られているかです。それが重要で、そこから理解すると、ここにまぎれもなく新しい生き方が語られていると分かります。

 まず「偽りを捨て」と言われます。「捨てる」は「脱ぎ捨てる」ことです。22節にも同じ言葉が記されていました。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」とありました。それと同じ言葉で「嘘を脱ぎ捨てる」と言います。「脱ぎ捨てる」という表現は、洗礼と結びついています。キリストにあって洗礼を受け、新しい人を身につけ、神の命に生かされました。それが新しい生き方の根拠を形造って、それで隣人への嘘を捨て、真実を語ると言うのです。ですからさらにその理由として「互いに体の一部なのです」と続きます。洗礼をとおしてキリストの体に加えられ、互いに主キリストの体の一部にされました。その教会の根源から語られています。もちろん嘘をつかず、真実を語るのは教会の中だけのことではないでしょう。誰に対しても生きる新しい生き方の表現です。しかしその根拠は、キリストの真実から来ていて、そのキリストにある新しい生き方は、教会生活として具体化します。そして世界のどこに身を置いてもキリストを身に纏う教会人として過ごすわけです。

 盗んではいけないと言う言葉も、同じキリストにある基盤から発せられています。教会に泥棒がいたという話ではなく、あの時代、労働するのは一般に奴隷の仕事と考えられ、できるなら人に働かせて自分は働かないことが価値ある生き方とされていました。それを戒めて、キリストにある新しい生き方は働くことによって正当な収入を得る生き方と語られました。こうして福音が伝えられるところどこにでも労働の尊さが伝えられました。しかし聖書は、労働によって正当な収入を得るだけでなく、それを困っている人に分け与え、他者に仕える生き方を新しい生き方として語っています。他者のために仕える、そのための労働は、人類がなお福音から学ばなければならない新しい生き方でしょう。

 四つの表現の最後は、「悪い言葉を口にしないように」です。キリストにある新しい生き方は、言葉に注意を向けています。先には隣人に対して真実を語る、それは互いにキリストの体の一部に属するのだからと言われました。今度は、「人を造り上げるのに役立つ言葉」を語るようにと言われます。人を造り上げる言葉とは何でしょうか。人を傷つけ苦しめる言葉でなく、その人を助ける言葉、励まし、慰め、勇気づける言葉でしょう。キリスト教信仰は神の言葉によって言葉の重さをよく知っているはずです。人を造り上げる言葉は、キリストにある言葉です。主の言葉の中には、神の国の力が働いています。キリストを語る言葉、つまり福音は、教会を造り、「人を造り上げる言葉」です。

 福音に背いて人を傷つけ、人と人との交わりを破壊する言葉、あるいは教会を非難し、壊す言葉、不信を撒き散らす言葉、それらは「聖霊を悲しませる」と言われます。聖霊は私たちをキリストと結び合わせ、キリストにあって神と結び合わせます。人々を神との和解に入れ、人々に安心と喜びを与え、命と希望を与えます。それが聖霊です。聖霊は人と人とを深いところで結び合わせます。人を破壊し、生きにくくする言葉は、聖霊を悲しませると知らなければなりません。聖霊を悲しませながら、私たち自身に命や喜びや希望が湧くはずはありません。

 四つの言葉の中ほどにあるのは、怒りについての警告です。怒ることは頭からだめだとは言われていません。しかし怒りを無制限にいつまでも続けないようにと言われます。怒ることには危険があります。悪魔につけ入る機会を与えてしまいます。ですから怒りの時間を短くするようにと言われます。怒りに時間的制限を与えよ。そしてそれができると言うのです。「太陽があなたの怒りの上に沈むことがないように」とあります。日没で一日が終わりますが、そこから新しい一日が始まります。「宵越しの怒り」を控えなさいというのです。

 使徒は、怒ることの危険をよほど気にかけていたようです。ここには怒りを戒める言葉が二度出てきます。31節ですが、捨てるべきことが五つの言葉で語られていて、怒りはその真ん中に出てきます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」、それに「悪意」が絡まっています。真ん中の「怒り」に向かって「無慈悲」があり、「憤り」があります。それらが「怒り」に高まり、その怒りが外へ爆発するのが「わめき」、そして「そしり」です。これは、教会の現実を踏まえていて、教会間に、また教会の内部に不一致や争いがあり、その根源に「怒り」があるのを見ていたのではないでしょうか。

そして怒りを捨てることはできるというのです。その根拠は「神があなたがたを赦してくださった」のだからと言われます。私たちは実際は自分が怒るより、むしろ神の怒りを受けるべき者でしょう。しかし神は、その私たちをキリストによって赦してくださいました。そこに私たちが新しく生きる根拠があります。キリストによる神の赦しの中で互いに赦し合うことができるはずです。これは「きれいごと」を言っているのではありません。「神がキリストにあって赦してくださった」ということは、通り一遍の教科書的な綺麗ごとではないからです。それはおよそあり得ないことが起きた神の奇跡です。神の赦しがきれいごとに過ぎないとしたら、私たち人間は罪の現実から離れられず、古い人として滅びに向かうほかはないでしょう。あるいは、互いに怒りに燃え合って自暴自棄になるほかはないでしょう。

 しかし、ゴルゴタの丘の上で十字架に架けられた主キリストの犠牲が、私たちの罪の身代わりとなって献げられました。その甚大な苦痛と死の事実によって罪に対する神の憐みの処置が遂行され、それによって神の赦しが事実になりました。しかもそれは、今日の事実でもあります。主イエスの十字架の死は、過去にあったことですが、ただ過去のこととして過ぎ去ってしまわず、復活者キリストにより、その十字架の死として今日も神の赦しの力を発揮しています。十字架にかかり復活したキリストが今日共にいて下さるとき、主の十字架は私たちの今日の現実でもあります。復活者キリストの十字架により、今日も神の赦しが発動し、私たちを新しく生かします。ですから主イエス・キリストの十字架の死は、私たちが日に一度はそこに立ち帰るべき事実です。否、日に何度でも立ち帰ることのできる神の現実です。だからまた、あなたがたも赦し合いなさいと言われるのです。「日が暮れるまで怒ったままでいてはならない」。今日も神の赦しの中で私たちは生かされています。神の赦しによるこの命を、新しい生き方で生きようではありませんか。

祈りましょう。
聖なる、天の父なる神様、今日も御前に集められ、会堂にあって、あるいはまた家庭にあっても、共に礼拝の恵みにあずかることができまして、感謝致します。御子イエス・キリストの十字架の死によって、あなたの赦しの中に今日も身を置くことのできる幸いを感謝いたします。あなたによって命を与えられた者として、人々との交わりに新しく生きることができますように。御言葉にありますように、偽りでなく真実を語り、日が暮れるまで怒りを引き延ばすことなく生きることができますように。困っている人を助け、人を造り上げるのに役立つ言葉を語り、聖霊を悲しませることがありませんように。教会が主キリストの体として、神の国の希望を世界に示す群れであることができますように。そのために伝道者・牧師の働きを顧み、新たに伝道者として献身する人々を起こしてくださいますように。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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