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礼拝説教

2月2日礼拝説教

説教「勧告の焦点」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
                 ペトロの手紙Ⅰ 3章8~12節

 信仰生活と言いますが、キリスト者の信仰がありますが、同時にキリスト者には生活もあります。聖書はですから、信仰を語りますが、同時にその信仰に従った生活も語るわけです。それは特に「勧告」とか「勧め」といった文体で記されます。

 今朝の箇所には、そうした一連の勧告が知るされています。最初に信仰の仲間の間、つまり教会の中で、どう生きるべきか、五つの勧告が語られ、その後で教会の外部の人々に対する姿勢が二つ、計七つの勧告の言葉が記されています。ですからこの短い箇所に、七つの説教が必要なのかもしれません。ですが、今朝はこれら7つの勧告をどう聞くか、七つの勧告が全部そこから発して、またそこへと導いている、その勧告、そして信仰生活の中心に心を向けたいと思います。ちょうどレンズの光線が焦点に集中して、一つの像を結ぶように、キリスト教信仰の生活もその焦点のそば近くに成立するでしょう。そこから信仰の生活が生まれ、そこへと信仰の生活が帰っていく、そういう中心から7つの勧告を聞くのが、聖書に聞くということではないでしょうか。

 はじめの勧告は「心を一つにするように」、それから「同情するように」、さらに「兄弟愛を生きるように」、「憐れみ深くあるように」、そして「謙虚になりなさい」と続きます。それらは信仰の仲間と共に生きる生活の勧めです。それから「悪に対して悪をもって報いてはならない」「祝福を祈りなさい」という二つの勧め、これは教会の外部の人たちに対する生活でしょう。計七つの勧告です。

「心を一つにするように」というのは、「一つの心で」という言葉です。それぞれ自分なりの考え方をしてはいけないということではありません。個性的な考え方があり、異なる環境にあってそれぞれ多様な考えがあります。しかし「唯一の神」「おなじただひとりの神」にみな信頼を寄せ、心を繋ぐのではないでしょうか。神がおひとりなので、神に結ぶ心は一つです。「一つの心」とは、皆の心を人間の命令で縛ることではありません。そうでなく、唯一の生ける神の御前で、みな同じ神によって生かされている。その恵みに根拠を置いて「一つの心」が語られます。「一つの心」とは、唯一の生ける神に寄せる信仰のことを語っています。「一つの心」は私たち人間にでなく、神に根拠を持っています。

 続いて愛をもって生きるべきことが三つの勧告で語られます。「同情し合い」、「兄弟愛を生き」、「憐れみ深くあるように」です。「同情」という言葉は、英語で言うシンパシーですが、「共に」を意味する「スン」と、パシーはパトスで、苦痛や苦しみを共にすることを意味します。真実に同情し合うことは私たちには不可能です。しかし苦しみを共にしてくださる神がおられます。生ける神に苦しみを共にしていただいている私たちです。だから互いに同情し合いなさい。神の同情によって生かされている者として、互いに同情し合いなさいと言われます。

「憐れみ深く」とあるのも、根本は神が「憐みの神」であることを告げ、神の憐み深さに生かされること、それによって憐れみ深くあるようにという勧めです。「憐れみ深い」という言葉は、「内臓」とか「はらわた」を意味する言葉からできています。神の憐みは言葉だけのものではありません。はらわたが痛む中から注ぎ出る神の愛があります。私たちのために十字架の苦難の死を負った主イエス・キリスト、この御子なる神キリストの出来事にあって神は憐れみ深い神でいらっしゃいます。憐れみ深い神が私たちと共にいてくださる。神の憐みに生かされた私たちに、憐れみ深くあれと勧告されているわけです。この勧告が無力であるはずがありません。

「謙虚でありなさい」という勧告は、文字通りには「低い心で」という言葉です。謙虚であるとは、神の御前に自らは心を低くし、神を高く仰いで生きることでしょう。神がまことに神でいらっしゃる、神が生ける神でいらっしゃる、その活ける神を信じ、高く仰いで、その御前で生きることです。逆に神に対して心高ぶる者は、結局、神をないがしろにし、神を神として認めない不信仰に堕ちるのではないでしょうか。それはまた神に満ち足りることをせず、神を不足として、神では満足しません。神に満足しない、不足だと思うことが、それがまさしく罪です。

 教会はそれで、伝統的に罪の代表的な出現を「貪欲」や「傲慢」の中に見て来ました。こういう罪の理解は、現代人を理解するうえでもあてはまるのではないでしょうか。傲慢の罪は、神の力の偉大さを知らず、また神の恵みの大きさに満ち足りようとしません。それは本心で神を神としないことです。見るからに傲慢で神の御前に心を低くしない人間の有り様は、比較的すぐに謙虚でない不信仰の姿として分かります。しかし私たちには分かり難い傲慢もあるでしょう。嘆きの中にあり続ける不信仰の形もあるからです。嘆き苦しみの中にある。そして神の慰めに満ち足りようとしない。それは心を低くしているようで、実は神の助けや憐みによって生きようとしない、それを拒否しています。あるいは主イエス・キリストによる神の慰めでは不十分だとして、それで満ち足りようとしないわけです。嘆き、悲しみながらも神の御前に心を低くしない傲慢もあるわけです。どんな悲しみの中にあっても、神が主イエス・キリストの十字架の苦難にあって、憐みの神であり、その神が共にいてくださることに深く慰められる。それが「謙虚でありなさい」との勧めではないでしょうか。主イエスの十字架の中に尽きない恵みを味わい、主イエスの復活にすべてを足もとに従える主の力を見るべきです。主の恵みでは満足できない高慢に陥ってはなりません。

 これらのことを語ったのちに、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない」と続き、「かえって祝福を祈りなさい」と言われます。世の人々の中には教会やキリスト者に悪意をもって接触してくる人々もなくはないのです。それにどう対処するか。悪をもって悪に報いず。侮辱をもって侮辱に報いてはならないと言うのです。なぜでしょうか。またどうしたらよいのでしょうか。なぜ悪をもって悪に報いずなのか。それは、神が生きておられるからです。復讐を断念しなさいと言われるのは、裁きは生ける神に任せよということです。信仰生活のすべての勧告は、それが発してくる起原があり、またそこへと信仰者を導き返る焦点があります。それは生ける神がおられる。神に信頼し、神に任せよ、神に満ち足りよです。

 悪に対して悪で応じるのは、地上の国家の論理かもしれません。しかし神が生きておられ、復活の主イエスが真の勝利者である現実にあっては、聖書の勧告に真理があります。復讐は神がなさること、そして復活してあらゆる権勢を足もとにおく実在の主イエス・キリストが、罪と悪と死に対する勝利者でいます。その主の召しによって、祝福を祈りなさい。神の救いに人々が与るように、祈りなさい。神が生きておられるという事実が、教会を世のために祝福を祈り、世に祝福を運ぶ者たちにします。そういう者たちとして神は私たちを世に遣わしておられます。

 天の父なる神様、恵みと力に富んだあなたが今日も私たちと共にいてくださいますことを心から感謝します。傲慢や貪欲が争い合っているような今の世の中です。そのために本当に希望をもって生きることもできません。私たち自身もしばしばその一員になっている不信仰をおゆるしください。どうか主イエス・キリストにあってあなたの恵みと力に依り頼み、あなたの救いである祝福を世に伝える者とならせてください。心を一つにし、同情し合い、兄弟愛に生き、憐れみ深く、謙虚な者にしてください。御子主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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