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礼拝説教

3月1日礼拝説教

説教「まことの礼拝」東京神学大学名誉教授 近藤勝彦牧師
 
  ヨハネによる福音書4章16-26節

 わたしたちキリスト者の信仰生活の中心は週の初めである日曜日の礼拝にあります。礼拝を捧げることが重要な信仰の生活であることはどなたもご存知と思います。ところで礼拝は何かの手段でしょうか、それともそれ自体が人生の目的でしょうか。

 日本のキリスト者の先人の一人、植村正久の文章には礼拝について記した文章がいくつも残されています。その中で目を引くのは、礼拝を他の何らかのもののために手段にしてはならないと強調していることです。神をまことに神として畏れ、愛し、信頼し、拝む行為が、わたしたちの礼拝であって、教会の礼拝は、それ自体が目的だと言うのです。周囲には宗教的行為を手段にする日本人一般の生活があります。日本では、ほとんどすべての宗教行事が、例えば家内安全や五穀豊穣のため、あるいは国家安寧や国家繁栄のため、さらには工事の安全や戦勝祈願、果ては受験の合格のため、とにかく色々なものの手段として神や仏や先祖が使用されるわけです。今朝はそれとは違う「まことの礼拝」をヨハネによる福音書4章から教えられ、また主イエスに教えられている礼拝をささげてわたしたちの信仰生活を進めて参りたいと思います。

 まことの礼拝とはどのような礼拝でしょうか。ヨハネによる福音書4章の礼拝の話しは、主イエスが「ヤコブの井戸」の傍らで、サマリアの女に「水を飲ませてください」と語りかけたことからはじまりました。そして「永遠の命に到る水」が湧き出る「泉」の話になり、「その水をください」という女の求めに及びます。しかし主イエスは「あなたの夫をここに呼んできなさい」と不思議なことをおっしゃり、この婦人の置かれている問題状況が明らかにされます。5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。そういう仕方で、その婦人の孤独な生活と、その背後にある不安定な情況、それにはサマリアという多民族地域の問題、そしてそこでの宗教問題があることが暗示されます。さらには先祖からの礼拝の話に及び、その話の頂点として、またすべての問題の解決として「まことの礼拝」が語られるという筋になっています。

 まことの礼拝はですから、「命の水」を汲む場所であり、多民族問題を解決する場所であり、さらには宗教的な対立をも克服する地点として示されています。ということは、まことの礼拝なしには、人間は真に人間として生きられない、世界の民族問題も宗教間対立も「まことの礼拝」なしには解決がつかないと語られているわけで、個人としての人間だれしも、また人類全体も「まことの礼拝」を必要としているということではないでしょうか。ヨハネによる福音書は、そう語っていると思います。人間は礼拝、それもまことの礼拝を求めている、それは一人の個人を生かす道であるが、同時に全人類の救済もそこにあると語られていると思われます。

 ですが、聖書はもっとそれ以上のことを語る主イエスの言葉を伝えています。それを、今朝は受けとめたいと思います。まことの礼拝は、確かに人間だれもが知らぬうちにもそれを求め、全人類が真実必要としていることですが、その線を進めて行けば結局、礼拝は人間が救われるため、そして全人類の問題が解決するための手段ということにならないでしょうか。結局は人間のため、世界のための礼拝なのでしょうか。

 主イエスはそうは言いません。「しかしまことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。23節の主の言葉です。主イエスが「まことの礼拝」を語るこの個所は、聖書全体の中でも特別な輝きを放っている山々の頂のような箇所です。いくつもの深い真理が合わさっています。本当の礼拝とはどういうものか、そしてそれはなぜか、またどうして礼拝できるのか、まことの礼拝が実現するのは何時なのか。

 従来、イスラエルの民の礼拝の特別な聖書箇所は、伝統的に申命記6章4節、5節と言われてきました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。これに対し、ヨハネによる福音書4章23節はそういう礼拝がさらにどこに根拠を持ち、支えを与えられ、どうして可能になるかを語ります。

 まず、まことの礼拝は、人間の必要からではなく、それを越えて神の御意志から来ています。なぜ礼拝するのか、救いを求める人間の要求よりも何よりも、神がまことの礼拝をする者を求めておられるのだと主は言われます。この神の求めは、神の御意志であり、それも御自身との交わりに入れらられる人格を求める神の愛の御意志があります。キリスト教礼拝は人間の都合でどうとかする礼拝ではありません。礼拝成立の理由には神の愛の御意志があり、従うべき御意志が示されています。まことの礼拝において礼拝する者はそれを求める愛の神に応えるわけです。まことに神を礼拝し、父よと呼んで御栄を讃えたら、人間の力を越えた神との交わりに入れられています。

 さらにまことの礼拝は「霊と真理」をもって「父」を礼拝すると言われます。霊とは御霊であり、聖霊です。聖霊は命の霊であり、神の創造の力でもあります。聖霊はまた信仰と希望と愛を賜物として与える霊です。その霊をもってとは、霊の注ぎを受け、霊を宿し、その霊にあって「アッバ父よ」と神を呼びます。そして信頼と希望を神に寄せ、愛をもって父なる神を礼拝するのです。そこには洗礼を受けているという恵みの状態も意味されているでしょう。

「霊と真理」をもっての「真理」とは何でしょうか。主イエス・キリストのことと理解すべきでしょう。真理が主イエスのことであるのは、ヨハネが伝える主の言葉にしばしば出てきます。「わたしは道であり、真理であり、命である」(11・25)と主は言われ、また「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1・14)という証言もあります。「恵みと真理とはイエス・キリストを通して現われた」(1・17)とも言われます。神の真理である活けるキリストなしにまことの礼拝を捧げることはできません。

 まことの礼拝とは、聖霊に満たされ、主イエス・キリストにあって父なる神を礼拝することです。御霊による命と信仰により、また活ける復活の主とともにあって、その主のものとされ、主イエスにあって、父よと呼んで礼拝する、神の御意志に応えて礼拝することです。
そういうまことの礼拝をする「時が来る」とも主イエスは言われます。この時の問題は重大で、やがて来る時、つまり将来の礼拝、終りの時の礼拝が言われるわけです。神の国の全き到来におけるまことの礼拝の実現がある。そういう「まことの礼拝の時」が来ると主イエスは約束されながら、しかも同時に「今がその時である」ともおっしゃいます。まことの礼拝は、世の完成の時にまったき礼拝として来ます。それは終わりのまったき完成の礼拝でしょう。おそらくそれは万人の礼拝、万物の礼拝でしょう。神によって創造されたすべてのものが一つになって、こぞって捧げる礼拝は、生ける者も死せるものも復活の命、永遠の命にあずかって、霊と真理をもって礼拝します。あらゆるものが一つにされて礼拝する時が来ます。それが活ける復活の主イエスの今の語りかけとして「今がその時」であると言われます。今日の礼拝は、まだ万人・万物の礼拝ではなく、選ばれた幾人かの礼拝にすぎません。またわたしたちの目には、天の御国に入れられた人々は見えません。しかし霊と真理、つまり命の御霊と復活の活けるキリストによる礼拝は、終りの礼拝と一つに結び合わされている面があって、「今がその時である」と主キリストは言われます。御霊と活けるキリストの現実にあって、今日の礼拝が終りの時の全き礼拝と一つに繋がって、神の御意志に応え、わたしたちの目的を実現します。わたしたちが生まれてきて、キリスト者とされたのはこのためです。「まことの礼拝者」になるためです。

 まことの礼拝をささげながらわたしたちは信仰生活を生き続けます。人生と世界の目的である礼拝、世界の完成である礼拝です。命の水に汲む礼拝、孤独な人間を孤独でなく生かす礼拝、民族問題を越え、民族宗教を越え、全人類の救済、万物の救済である礼拝。その礼拝を御霊と主イエス・キリストにあってささげ、すべての者がくわえられるように信仰者としての祈りと証の歩みを進めたいと願います。

天の父よ、御霊の注ぎを受け、活ける主イエス・キリストにあって、あなたを父よと呼びまつることを許され感謝いたします。わたしたちの人生もまた世界のすべての営みも、霊と真理により神を礼拝するまことの礼拝を究極の目的としていることを知らされ、感謝いたします。そこにわたしたちの汲むべき命の水の泉もあり、また世界の諸問題の解決もあると存じます。教会がまことの礼拝をささげ、すべてを完成へと導くあなたの御業の遂行に役立つ者となることができますように導いてください。活ける主イエス・キリストの御名によって祈ります。

      300百合

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