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礼拝説教

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説教 「魂の救い」 長山 信夫牧師

ヤコブの手紙1章22‐27節

 「魂の救い」、ヤコブの手紙独特の言葉です。なぜなら、救いとは魂だけの問題ではないからです。「霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして」守られることだからです(テサロニケの信徒への手紙一5章23)。しかし、私たちには、ヤコブが言わんとしていることが理解できるように思います。洗礼を受け、教会生活に励みながら、救いの確信のない自分に気づかされているからです。

「救われるためにはどうすべきでしょうか」は牢屋の看守がパウロとシラスに尋ねた問いです。その夜大地震が起こり牢獄は崩れました。囚人たちは逃げ出したものと思っていた看守が、そこに見出したのは、神を賛美し続けている囚人たちの姿でした。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」との言葉に、看守と家族は洗礼を受けました。使徒言行録16章の有名な出来事です。洗礼を受けた看守家族はその後どうなったのでしょうか。ヤコブの関心は信仰生活のその後です。

 日本のクリスチャン人口が増えないのは受洗者はいてもその後の信仰生活が続かないからだといわれた時期があります。私たちもヤコブの言葉に無関心でいていいはずがないのです。

 ヤコブの手紙独特のもう一つの言葉があります。「試練」です。主の祈りに「試みにあわせず悪より救い出したまえ」とあります。神様は私たちを試みられるのではないでしょうか。しかしヤコブはこう言います。神は「人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(1章13,14節)。つまり、「あなたが苦しみにあっているのは、あなたが欲望に負け欲望に支配されてしまった結果なのだ」というのです。苦しんでいる人に対するずいぶん突き放した言い方だと言わなければなりません。

ヤコブは試練にあっている兄弟姉妹にこう言いたいのではないでしょうか。「あなたの信じている神はあなたを欲望に支配されるものとしておつくりになられたのではない。神に創造された本来の自分に立ち返りなさい」と。

 創世記1章を思い起こしましょう。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。』そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。 天地万物は完成された」(創世記1章27節‐2章1節)。

 最初の人アダムとエバの過ち、それは神の言葉を軽んじたことです。それによって死が入り込み、罪に支配される世界となりました。しかし、それは神のつくられた本来の姿ではありません。神は御子イエス・キリストをお遣わしくださり、死を克服し復活され、新しい命へとすべての人を招いておられます。神の言葉に生きる新しい人の創造です。それが神の造られた原初の人の姿です。

「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」。1章23,24節のことばです。「鏡に映った自分」とは試練を自らに招く醜い弱い自身の姿でしょう。鏡から離れればすぐに忘れてしまって、ひとかどの者であるかのように歩むのです。み言葉を聞くだけで行わない人はそれに似ているというのです。

ヤコブの手紙は行為義認主義だと誤解される言葉ですが、そうではありません。神の言葉を生きるのが天地創造の原初の人間の姿であり、キリストはそこへと私たちを導いてくださっているからです。

大切なのは神の言葉を生きることです。そのためにはどうすればよいのでしょうか。ヤコブは語ります。第1は「舌を制する」ことです。「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(19節)と勧めます。話すよりもまず聞きなさいとはまさに私への戒めです。語る言葉にはしばしば、裁きと怒りが響いていることをわたしは知っています。

第2は「みなしごや、やもめが困っているときに世話」(27節)をすることです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マタイによる福音書26章11節)は十字架を前にした主イエスが戒められた弟子たちに対する言葉です。当時の教会はそうだったのでしょう。現代も助けを必要とする兄弟姉妹が身近におられるのではないでしょうか。

 私はヤコブの手紙に励まされます。だらしのない自分を知っているからです。しかし、それは神の造られた本来の自分の姿ではない。神は喜んで語り、励まし、導いてくださる。み言葉を生きる者になりたいと心からそう思います。舌を制すること、世話をすること、ヤコブの手紙に導かれ、また新たに信仰のスタートを切りたいと願います。

 
<祈り>
天の父なる神様、あなたが絶えず語りかけ、今日も御言葉をもって導いてくださいますことを感謝します。み言葉を軽んじることなく、繰り返し思い起こし、行うことができますように。 
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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